京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

大阪 源氏ゆかりの地巡り② 源氏三代の墓(頼義、義家、頼信)、源氏館跡

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壺井八幡宮から歩くこと10分ほど。

この辺りも人家が結構ありました。

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こんなところ通るのー??と思いながらも、

ナビに従って歩きます。

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抜けると広い道に出てびっくり。

しかもきれいに整備もされています。

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通法寺

河内源氏菩提寺でありましたが、今は廃寺となっています。

 

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広々とした荒野に、ほんとうにぽつんとこれだけしかありません。

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源頼義(988-1075)のお墓です。

 

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源頼義は、父頼信、母修理命婦の長男として生まれた。平忠常の乱の際、父を助け乱の鎮圧に貢献し、早くからその武勇を東国武士に知らしめていた。

永承6年(1051)、「浮囚の長」である安倍頼良(のちの頼時)が反乱を起こした際、乱の鎮圧に当たった。いったんは頼時を従わせたが、そのあと頼時とその子貞任がふたたび謀反をおこしたため、出羽豪族清原の援を得て、康平5年(1062)ようやく乱を平定した。(前九年の役)。また頼義は前九年の役の出陣に際して、石清水八幡宮に参拝して戦勝を祈願し、その戦功をあげることができたので、その感謝の意味を込めて、この地に八幡神を勧請し、通法寺の北側に壺井八幡宮を建立、源氏の氏神とした。承保2年(1075)7月13日、88歳でその生涯を閉じ、通法寺境内に葬られたといわれている。」

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家紋は、笹竜胆紋(ささりんどう)

源氏各流によってこんなに家紋があるのですね。

下記、とても参考になります。

清和源氏各流の家紋

 

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通法寺の右側に抜けると、源氏館跡があります。

「(略)頼信らが住んだ館の跡は、壺井八幡宮が鎮座する丘の上にあると伝えられている。今のところ場所や規模などを知る具体的な手掛かりはないが、武家の棟梁にふさわしい豪壮な屋敷が造られ、たくさんの武士たちが集まっていたことだろう」

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明治40年に建てられたもののようです。

源館・・通法寺・・と多少読めます^^;

徳川綱吉ともありますね。

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館があったのは場所的にはこの丘あたりでしょうか。

通法寺北側を見たところです。

 

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さて、続いて向かいます。

ここから少し心細くなりますね・・。

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少し歩くと、あったあったこれだ!

源氏三大の墓、とあります。

いや待て待て、写真ではこれではないはず・・。

地図で見るとさらに奥に行かないといけません。

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いのしし!

出没注意って、どう注意したらいいの??

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ひぇぇぇ・・めっちゃ心細いってー!

 私の御先祖様は源氏だから、大丈夫と言い聞かせながら登りました(笑)

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少し上がると広い場所に出てびっくり。

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右側に小高い丘になっていて、その麓に素敵な石碑がありました。

大正五年?三年? 

とってもかわいらしい文字w

源頼信 義家公御廟修繕」とあります。

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ぐるっと回ると、正面が見えました。

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義家のお墓です。真南を向いていました。

そういえば、頼義も真南を向いていましたね。

何があるんだろう?

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源義家は父頼義、母平直方の女の長男として生まれた。7歳の時、石清水八幡宮元服八幡太郎と名乗った。前九年の役の際、頼義に従い反乱を鎮圧し、武将の名声を高めた。

永保3年(1083)には出羽豪族清原の内紛が起こるが、寛治元年(1087)その鎮圧に成功し、武将としての地位は不動のものになった。(後三年の役

この鉱石から、百姓が土地を寄進しはじめ、寛治6年(1092)には、朝廷から土地の寄進を禁止されるまでになった。また永徳2年(1098)武将で初めて院への昇段(殿上人)を許された。

晩年康和3年(1101)7月、次男対馬守義親が反乱、また三男の義国が嘉承元年(1106)6月に事件を起こすなど義家の中央官界での地位が危ないものになっていった。最後は嘉承元年(1106)7月、今日の邸宅で死去し、この地に葬られた。」

 

頼義・義家はこれまでもゆかりの地を巡っているので、なんか感慨深いものがあります。下記も合わせてどうぞ、

 

kyotomichi.hatenablog.com

 

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 さて、まだこの道をまっすぐ行きます。

いわゆる山道よりましかな・・。

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 源頼信のお墓です。

こちらは真東を向いていました。

 

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源頼信は、清和源氏の家系である満仲の三男として生まれた。20歳のとき中央官界に身を置き、藤原道兼道長に仕えた。特に長元元年(1028)に勃発した平忠常の乱の際には、追討使平直方にかわり反乱を鎮圧した。この欄を鎮圧したことによって、頼信は武家の棟梁としての確固たる地位を築いた。

また、上野・常陸・石見・伊勢・美濃などの国司を歴任しており、最後に河内国司となる。その時河内国古市郡壺井里(現壺井・通法寺)に本拠地を構え、河内源氏をひらくもとになった。

長久4年(1043)には、頼義とともに観音堂(のちの通法寺)を建立したと伝えられ、代々河内源氏の氏寺として信仰された。永承3年(1048)、81歳の時にこの地で死去し、遺言により通法寺の巽(東南の丘陵上に葬られた」

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おまけ

頼信のお墓の左側に、「大僧正隆光墓」というのがあります。

将軍徳川綱吉の学僧で、江戸護持院の住職を務め、いわゆる「生類憐みの令」を公布させた人になります。のちに通法寺の住職に左遷させられたようですね。

さてさて、上ノ太子駅にもどり、13時20分に橿原神宮駅に着。

今度はずっと行ってみたかった三輪神社へ向かいます。

すでに予定の時間1時間超え(笑)

散策に1時間見てたけど、思ったよりかかりましたね。

さすがにお腹空きすぎて、乗り換えまで20分間あったので、ここで食べるしかないとドトールでさっと昼ごはん。

 

すでに本日の歩数9800歩!!

美輪まで持つかしらん…。