ずっと行きたいと思っていた義仲寺へようやく行ってきました。
膳所駅から15分ほど歩いたところにあります。
私の祖母の家系の御先祖様に義仲の名があって。
嘘やろーとは思っていますがw
歴史を読んでいると、義仲は自分勝手、裏切者・・というイメージがあって、どうしても好きになれない。行くことで親しみもてないかなーという思いもありました。
写真がなぜか全部ぼやけてしまっています・・。
閉まる間際に行って、急いで撮りながら回ったからかもしれません。
義仲は、1180年に兵士討伐の挙兵をし、1183年5月北陸路に兵士の大軍を打ち破り、7月に京都入りしました。翌年1月、源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼、義経の軍勢と戦い、この地で討死しました。享年31年。
「義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。
門を入ると左奥に、俳聖松尾場所の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。
木曽殿と背中合わせの寒さかな、
という著名な句は、芭蕉の門人又玄の作です。
境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句、
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
など多くの句碑があります。
昭和42(1967)年11月に国指定の史跡となりました。」
巴地蔵堂
折れ曲がりが気になりますね。
翁堂
伊藤若冲筆 四季花卉(かき)の図
芭蕉翁坐像
三十六俳人の画像
(安政3年に類焼し、明治21年に穂積永機が類焼したものに似た画像を製作し奉納したのだそう)
木曽八幡社
義仲寺の鎮守として、古図にもあるそうな。
芭蕉翁墓
芭蕉は、義仲に深い思い入れがあったようで、この地に何度も来訪し、遺言に「骸は木曽塚に送るべし」とも残すほど。
それでここにあるわけなのですね。
なぜそこまで義仲に思い入れがあったのか・・もっと義仲を知ったらわかるかもしれませんね。
朝日将軍木曽源公遺跡之碑
木曽義仲公墓
巴塚
「木曽義仲の愛妻巴は、義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが、義仲が強いての言葉に最後の戦を行い、敵将恩田八郎を打ち取り、涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕えられた。和田義盛の妻となり義盛戦死の後は尼僧となり各地をまわり当地に暫く止まり、
亡き義仲の菩提を弔っていたという、それより何処ともなく立ち去り、信州木曽で90歳の生涯を閉じたと云う。」
古池や 蛙飛びこむ水の音 芭蕉翁
有名な句ですね。
行春をあうみの人とおしみける 芭蕉桃青
芭蕉の真筆句碑
山吹供養塚
「山吹は義仲の妻とも妾とも言う。病身のため、京に在ったが義仲に逢わんと大津まで来て、義仲戦死の報せを聞き、悲観のあまり自害したともとらわれたとも言われ、その供養塚である。元大津駅前に塚が在り、改築のためこの地に移されたものである」