則之内村も色々先祖にゆかりがある地域になります。
国木には、私の祖父の曽祖母コメの実家、戒能の本家があり、屋敷名を門口、新宅と言いました。国木は1500坪ほどの敷地があったそうです。
本来の字は、池が平か大熊??
惣田谷には、曽祖母の実家高須賀本家がありました。屋敷名をなかぶ。先祖には庄屋を務めた人もいて、苗字帯刀も許されていたそうです。
保面にも高須賀の親戚が住んでいたそうです。土蔵のある大きな家だったとか。
本当ならこちらも人が住んでいるところまで行ってみたかったですが、なにぶん不便な場所・・。家があるのはまだ奥だったので諦めました・・。
このコメの親兄弟がわかれば、もしかしたらお墓も大通庵にあるのかもしれないのにな・・とか思ったり。
昔の女性は特に重要視されていないので、詳細がわからないのですよね。
とりあえず、神社系は何かしらあるかもしれないと思って行きました。
とうおんデジタル資料館の川内町誌の第二部三内によると・・
大元神社(大字則之内奥惣田谷にあり)
祭神:天御中主命
由緒不詳
当社は氏宮三島神社の所轄であったが、氏子中協議の末、明治末年三島神社に譲り、現在は三島神社に属す。明治23年火災にかかり一切を鳥有に帰したが、同24年再建、昭和33年拝殿大修繕奥惣田谷前六戸によって維持されている。
ちなみに氏宮三島神社は、大字則之内宮之前にあります。
祭神:大山祇命、雷神、高龗神(たかおかみ)
由緒:当神社は、上古の世久久米主命、神籠を立て大山祇を祀り大神と称え、この里に住む氏族の氏神と崇敬し奉った。(略)人皇第43代元明天皇の御代和銅5年8月23日、越智玉興、当国大三島から高龗神、雷神を勧請して合祀した。文永、弘安の役、蒙古襲来の節は勅を奉って、河野通有および通純国中の神社に祈り出陣し筑紫に下ったが、その時神祐あって偉勲を建てた。よって社殿の修補ならびに神領水田三反の寄付あり、その後嘉吉の頃名越の城主河野四郎武器奉納して崇敬したという。
年代はわかりませんが、高須賀富太郎と読めます。
鳥居は昭和34年5月、米寿記念 高須賀富太郎とあります。
でも由来を見ると、なるほどっと思いました。
昭和44年10月米寿記念 高須賀富太郎とあります。
全部同じ人!!地元の有力者でしょうね。
常夜灯がここにもありました。
河野家の家紋も置かれていました。三島神社とゆかりがあれば当然ですね。
こちらも河野家の家紋と同じですね。
昭和3年、一番右に書かれているのはやはり富太郎さんみたい?
昭和3年、左はやはり富太郎さん(笑)右は武部警一かな?
折れてしまった常夜灯でしょうか。
民家は見えているんですけどね。
ざっくり、この辺りに住んでいたんだろうなと思いを馳せて、後にしました。
ここではあまり収穫なし。
焼けてしまって再建されていたから仕方ないですね。