京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

自分のルーツを辿る7 愛媛旅行⑥ 久米郡南久米村 日尾八幡神社、鷹ノ子温泉

さて、鷹ノ子での最後はこちらです。

八幡宮は源氏が信仰したことでも知られています。

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松山市久米町2

 

 

 

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 石●改修寄付●

とあり、二段目に高須賀小三郎、景浦長次郎、戒能政太郎、三段目に景浦和三郎、景浦ウヽ(ウメ?)、五段目に八木庫次郎、一番下にも八木秀頼と八木**名が見える。

浄土寺でも見た名前がありますね。

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案内板によると、

「本殿は西・中・東の三玉殿に分かれ、主な祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと)、帯仲日子命、大帯姫命、宗像三毘売命である。

天平勝宝4(752)年、宇佐八幡から勧請して孝謙天皇の勅願所となり、久米八幡と称し、朝臣久米麻呂と高市古麻呂が斎王になったという。その後文治年間(1185-1189)に源頼朝によって再興され、承久年間(1219-1221)河野通信が社殿の改修をした。以降、河野氏歴代の庇護を受けた。

慶長8(1603)年、加藤嘉明が近郷の八社八幡を松山城の固めとし、当社もその一つとして武運長久の祈願所となった。松平(久松)氏も松山城鎮護として崇敬した。

中殿に奉斎する伊予比売命(いよひめのみこと)は、伊予豆比古神社にまつられる伊予比古命とともに、元は夫婦神として久米郡神戸郷古矢野神山にまつられていたが、洪水で流され、今では分かれてまつられていることは有名である。社名は久米八幡宮から、中世には山の名をとって日王八幡宮と呼ばれ、後日王を日尾に改称したといわれる。松山市教育委員会

 

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なかなか時代を感じる像です。

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結構な階段にちょっと躊躇してしまいます。(登り階段恐怖症・・^^;)

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祭神

西王殿 品陀和気命(ほんだわけのみこと) 応神天皇

    帯仲日子命(たらしながつひこのみこと)仲哀天皇

中王殿 多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)、狭依毘売命(さよりひめのみこと)

    多紀都毘売命(たぎつひめのみこと)

東王殿 大帯姫命(おおたらしひめのみこと) 神功皇后

西王殿側王殿 健内宿禰命(たけうちすくねのみこと)

中王殿 伊予比売神(いよひめのかみ)、饒速日命(にぎはやひこのみこと)

東王殿側王殿 猿田毘古大神(さるたひこのおおかみ)

 

先の説明に書いていないことも書いていましたが、とりあえず省略。

永享年中に河野氏によって社殿が修築されたが、大正13年河野氏滅亡に伴い当社も一時荒廃した、とありました。

そうか、それで河野家の名前が、玉垣や石碑にはあまり見られないのですね。

滅亡したといっても、ほかの子孫は残っているのになぁ。

ところで後で気づきましたが、この石碑の後ろにも高須賀の名が・・。

見落としていました。

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これは比較的新しいものですが、戒能十郎、景浦静太の名があります。

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東道後神社

祭神:天御中主大神(あまのみなかぬしのおおかみ)

   天照皇大神(あまてらすすめらおおかみ)

   月夜見大神つきよみのおおかみ)

 

月読がこの字なのは初めて見ました。

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 一番上の右奥には、

景浦太郎の名があった。景浦太郎の横には、戒能博北?や景浦芳定の名があります。

 親戚が奉納したものもありました。

 これらも新しいですね。

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戒能善次郎、戒能春恵、戒能恪という名もありました。

 

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入口に奉献玉垣という碑があり、依頼主に景浦幸兵衛の名がありました。

遍路石にもあった名前ですね。

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裏に、嘉永七年(1854)甲寅八月成と記載がありました。

 

井内村から離れたこの久米村に、なぜ戒能がいたのかはよくわかりませんが、

ここでも河野家と戒能というつながりがあり、高須賀が川上神社の守を任されたように、この神社の守を任されたのかもしれません。

そして景浦・戒能がこの地の有力者だったことはわかりました。景浦の方が権力ありそうなので、戒能は景浦との政略結婚により地位を保っていたのかもしれませんね。

 

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せっかくなので先祖ゆかりもあるので、鷹ノ子温泉にも足を延ばしました。

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愛媛県立図書館/愛媛県行政資料(藩政期・明治期)久米郡の図

結構小さい集落だったことがわかります。

曽祖父千次郎(1876ー1937)は、ここで温泉を掘り当てて、温泉宿をやっていました。祖母もそれを手伝っていたことが手紙にも書いてあります。やがては祖父に継がせるつもりでしたが、働き手がいなくなり倒産。権利は他の人に譲ったようです。

おそらく明治頃にあったという「大師湯」がこれに当たるのでしょう。

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弘法大師がこのちに立ち寄られて散策されていたときに、

草の間から湯煙が立ち上がっているのを見て、「弁天池」と名付けられました。

これが鷹ノ子温泉の起源と云われています。

とてもすべすべして、気持ちのよいお湯でしたw

 

 

追記。

戒能が深く関わった地なのに、なぜ三島神社がないのだろうと思っていたら…先の熊野神社の地図に三島神社が書かれていました。

日尾八幡神社の北側にありそう…どれだ?と探していると、

松山市畑寺町に、桑原八幡神社があり、別名三島神社とありました。

そして、賽銭箱に河野家の家紋がありました。

昭和52年に桑原八幡神社に合祀されたそうです。

なので今の三島神社はないのですね…。きっと場所も違うところにあったのでしょうね。

ちなみに、この桑原八幡神社は、

延久5年(1073)源頼義により、河野親経が松山八社八幡の二番社に定めています。

『伊予太陽寺社故郷世諺集』には、

「河野家家譜に、延久五年国司伊予守源頼義の命により八ケ所八幡,四九ケ所の薬師堂を建立せり。」とあるとか。

この辺りも意味がありそうなので調べたいですね。

 

 

自分のルーツを辿る6 愛媛旅行⑤ 久米郡鷹ノ子村 遍路石

浄土寺の方から線路を渡って、南へ行くと、まず見えてきた石碑がこれです。

事前に遍路石に景浦の名前があることは知っていたので、見に行きました。

 

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左 へんろみち 、すぐこんぴらみ(ちは地中?)、國中 家内安全 

嘉永二年(=1849) 助力当村中 世話人 景浦幸兵衛 

 

讃岐街道まで南下して、西へ向かいます。

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松山市鷹子町24番地 久米小学校の北

このあたりに四国遍路石訳1000基の中でも、一番立派だという遍路石があります。

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南を指さした指型(西林寺方面) きゃくへんろ道(逆遍路道

文久二年戌三月(=1862) 為村中安全冥加

その下に 世話人 景浦幸兵衛

 

指型 みきへんろ道(右遍路道

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道法 松山札之辻 二里、三津浜 三里、道後湯之町 一里、久万町 六里、来見 六里、郡中 三里

施主 乃万与三衛門、同七郎衛門、三好嘉右衛門、荻山平左ヱ門、景浦幸兵衛

 

名前が2つもあり、施主の最後に名を連ねていることから、このあたりの権力者だったと思われます。

時代としては、曽祖父の母(景浦卒平の次女/1946年生)の頃です。

戒能助次郎は、もし今と番地が同じであれば、この小学校の東側あたりに住んでいたことになります。

景浦卒平については何もわからないので、何か情報が見つかってほしいものです。


 

さて、今度は北上して、日尾八幡神社を目指します。

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これは通り道にあったもので、一角にぽつんと小さな祠がありました。

手前に柱があり門があったのかもしれません。

景浦とは関係ありませんが、気になったので見てみました。

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西面:従金毘羅大門二十九里

北面:久米郡古川村

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東面:読めず・・

南面:文化十酉十月吉日(=1813 癸酉)

 

この3つの中では一番古い石碑でした。

このあたりは古川村だったのですね。

 

 

現在の鷹ノ子町は、赤のラインになり、遍路石があるところまでですね。

 

鷹ノ子の先祖については、やはり『久米村誌』『久米村誌資料集』『久米郷土誌』を見ないとこれ以上はわからない気がしました。古本屋でも買えるようですが、見ると8000円もしました^^; 図書館で読むには時間がかかりそうだし・・東温市のようにデータで見れたらよいのになぁ。

愛媛県大学付属図書館地域資料に所蔵されています。1965年編纂だから新しいけど、聞き取りして作成しているもの、と思いたい。

愛媛在住の方で、同様に先祖を調べていて、ご協力いただける方がいたらうれしいです。

 

自分のルーツを辿る3 愛媛旅行② 則之内村 三島神社

三内村は河之内村、則之内村、井内村からなります。

明治22年の町村制により、字 徳吉、則之内北、則之内南、永野、一ケ谷、保免、和田丸、惣田谷上、惣田谷下は、下浮穴郡三内村則之内となり、明治30年4月に温泉郡となりました。(曾祖母高須賀ツナは惣田谷出身。)

 

三島神社は、河之内村と則之内村の二か所にありますが、河之内村にはあまり親族はいないこともあって、則之内村の方へ行ってきました。

車で行ったのですが、川上神社からも近かったです。

京都の三島神社についてはこちらをどうぞ

kyotomichi.hatenablog.com

 

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変わった鳥居ですね! 古い感じがとっても好きな雰囲気でしたw

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扁額も変わっています。三島宮と書かれています。

ただこれはちょっと新しそうな・・?

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こちらも具体的な説明はなかったので、

『川内町誌 第二部三内』P476~より抜粋。

 氏宮三島神社(則之内) 

大字則之内宮之前 

祭神 大山積命、雷神 高龗神

境内神社 八幡若宮神社龍神社、鎌倉神社、猿田彦神社

 

由緒 当神社は上古の世久米主命、神籠を立て大山津見を斉き祀って氏之宮大神と称し、氏神とした。人皇第四十三代元明天皇の御世和同5壬子年(712)8月23日、越智玉興、当国大三島から高龗神、雷神を勧請して合祀した。文永、弘安の役、蒙古襲来の節は勅を奉って、河野通有及び河野通純は国中の神社に祈誓、出陣し筑紫に下ったが、その時神の助けがあって手柄をたてた。嘉吉(1441-1444)の頃、名越の城主河野四朗が武器を奉納して崇敬したという。

 

越智は河野の先祖とも言われています。

つまり、河野家が信仰した神社になります。

 

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写真はいつもとりあえず解鮮度高めで撮影して、あとからPCで詳しく見ています。

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本殿に着くまでにいろいろ発見。

東京とありますが、高須賀茂の名がありました。

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こちらは高須賀林平

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玉垣建設記念、元温泉郡長正五位勲五等倉根是翼書

昭和3年10月 比較的新しいですね。

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世話人として、高須賀林平、八木嘉妻、戒能公玄、高須賀嘉作、高須賀秀吉の名がありました。

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有形文化財 木造こまいぬ二躯

「阿形、吽形ともほぼ同じ大きさで、両像ともに力量感及び勢いがあり、丁寧な造りとなっています。表面に施されている塗りは江戸時代末頃に行われたもので、作られた当時は木地だったと考えられます。

胴体は一木造となっており、尾の部分だけ後で取り付ける工法となっています。

また台座の部分は裏面には四か所の穴があり、四本の脚を持った台座にこまいぬは置かれていたものと想像されます。こまいぬの作者については、随身像と作風及び材質が似ていることから同一人物の作品ではないかと考えられています。また製作時期は、随身像に書かれていた「延文5年、1359年」ごろに作られたのではないかと考えられています。」

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随身立像 二躯

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戒能静雄、高須賀フジ

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よく見たら・・戒能の「能」の字が、本能寺の「能(右が去)」になっています。

たびたび火災にでもあっていたのでしょうか?

そして間の柱にも戒能の名が!

本能寺についてはこちら。

kyotomichi.hatenablog.com

 

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こちらは全部高須賀です。

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拝殿

こちらの拝殿がまたすごかった。

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大山積大明神

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寄付者奉名がずらりと書かれています。

この中にも名前がいろいろ見られます。

以下、地域が関係ありそうなものだけピックアップしています。

 

幟(のぼり)奉納者に、

八木公成 保免、八木清一 保免、八木満 和田丸

ただ、平成10年とあるから、最近ですね。

 

他、鳥居改修工事寄付者芳名

昭和53年10月吉日

これも新しいですね。

 

惣田谷上区

金一萬円也 高須賀政数、高須賀信、高須賀哲、高須賀紋太郎

 

惣田谷下区

金一萬円也 戒能作平

金六千円也 高須賀定信、戒能猛、戒能俊●、高須賀茂、八木新三郎、八木岩市、

八木清●、高須賀佶、高須賀藤晴

金参千円也 八木忠幸

 

保免区

金参萬円也 八木清志

金壱万円也 高須賀平●、八木公●、戒能申●

金六千円也 近藤義則、八木隆義、近藤光雄

 

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何かはわかりませんが、南方村からの奉納ですね。

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こちらは川上村からの奉納

 

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本殿。

南北朝時代の建立とされ、三間社流造となっています。

河野家の家紋がありました。

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不思議な方向に並んでいる摂社。

高須賀富太の名がありました。

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戒能公玄

小さい柱には、戒能光●、高須賀猶蔵、八木又市

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先ほどの世話人の名にもあった、高須賀嘉妻

小さい柱には、高須賀岩太郎、戒能豊蔵

 

おおっ、ありましたよ、先祖に関係のある名前がっ!

私の曾祖父母の祖母の実家も戒能家で、兄の長男が虎(寅)太郎(本家/須之内村 惣田谷)、二男が豊蔵(分家/須之内村 惣田谷)なんです。

虎太郎は、1925年(大正14)5月31日没、豊蔵は1960(昭和35)6月没 88歳でした。

昭和3年玉垣を作っているので、この時のものでしょう。

まさに同時代ですしね。

本家は、借金で差し押さえになってしまったのでないのです・・。

 

 

 

自分のルーツを辿る2 愛媛旅行① 川上村 川上神社

2017年3月の連休に、愛媛へ行ってきました。(いまだ全然まとめられていない)

同様に調べている人たちと、どこかで繋がればいいなぁと思い、公開できるところだけ書いて行きたいと思います。

ということで、ちょっとだけ歴史について触れますね。

 

私は先祖は、戒能(かいのう)家です。

戒能は、中世の伊予国を治めていた豪族、河野(こうの)家の家臣として活躍していました。河野家は『吾妻鏡』にも出てきます。源頼朝側について挙兵し、実朝の時代まで深いかかわりを持っていたようです。河野通信は、3年半(わかる範囲で・・1199年10月-1203年4月)鎌倉で過ごしました。そして1205年閏7月29日、伊予国御家人32人を通信の支配下として務めるよう実朝から御書が下されました。

 

河野氏一門三十二将の一人であった戒能備前守通盛は、井内村の小手滝城、則之内村の大熊城の城主を務めました。

(私が中世時代、源氏に興味があるのはこのあたりのことも関係しますw)

 

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簡単に書いた系図。実際はもっと複雑・・。

 

先祖は、東温市温泉郡三内村(井内村、則之内村、河之内村)と久米郡鷹子に住んでおり、ほとんど身内婚で血縁を結んでいました。先祖には、戒能家、八木家、高須賀家、近藤家(ツナの母)という、当時の豪族がずらり。興味を持たないわけにはいきませんよね。

 

伊予史談会編纂の『戒能資料』

「戒能与惣左衛門通常

 ―(略)―延宝五丁己の年、松山の領主隠州公より庄吏の勤め宜しく聞召し八木拝領せり

「当家譜代の家臣八人あり、其内八木高須賀、西、是等の末裔今に至るまで是あり」

 

つまり、八木、高須賀もまた、戒能の家臣であり、八木は戒能から分家したものと思われます。同様に戒能も、河野家から分家したものと考えられています。

もちろん二次・三次資料で確証もないですけどね。

そういうこともあって、すべての家系を調べており、かなり時間がかかっています・・。

 

今回の旅行は3日間。

井内村も行きたかったのですが、さすがに遠いので今回は断念しました。

 井内村はこのあたりになります。

 

航空写真で見ると、土地がよくわかります。

高知から山越えで攻められたときの防衛として、井内村の小手滝城が任されていたのでは・・?と考えています。

旧三内村の地図は、「とうおんデジタル資料館」 『川内町誌』 (昭和三十六年四月刊行) に掲載されています。

 

 

久米郡川上村はこの井内村の北にありました。

後に三内村と合併して、温泉群川内村になりました。

 

 

 私の父方の曾曾祖父母&母方の曾曾祖父母に、八木常蔵・タマ夫妻がいました。その子供に常蔵・アサノ・基一がいました。(井内村北間)

アサノ(宇三郎に嫁ぐ)は、27歳頃(1916年頃)川上神社の近くに住み、薪炭商をしていました。このあたりには、タマ(旧姓松木家)の実家があり、その親戚たちも住んでいたので、その縁で移り住んだと思われます。

「この松木という姓は川上村に多く、明治・大正時代には村長を務めたものもいる」と祖父毅も書いています。

※ここでは、わかりやすく戒能と書いていますが、実際は江戸時代に養子に入っており苗字は変わっています。常蔵・タマの母コメの実家も戒能(則之内村惣田谷)になります。そして父方の祖母&母方の祖母が高須賀家(則之内村惣田谷)です。

私にとっては、三内村の次にゆかりがある村、ということで、まずはここを訪れたわけです。

 

(祖父毅の自伝より)

「大宮社を中心に東西に二キロほど延びた商店街があった。道路が家並みの北側を走り、その北側に幅三メートルほどの川が流れていた。叔母(祖父の父の妹/私の曾祖母)の家から五十メートルほど東へ行ったところに石橋があり、橋の向こうに石の鳥居。そこから高い石段を登ると、東西へ通ずる道路がよこぎっており、その向こうにまた鳥居があって、更に数段の石段を登った向こうに大きな社殿があった。昭和19年に県社となったが立派な神社だった。」

 

温泉郡川内町南方川上にある川上神社がこれにあたります。

もともとは、大宮社、河上社、河上大宮社、稲荷五社大明神などと称せられていたが、明治4年に「川上大宮五柱大明神」に、明治28年には「川上大宮五柱神社」に、そして昭和18年には現在の「川上神社」と改称しました。

 

 

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地図を見ていたらまさにここだっ!と感動ものでした。

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今も川と石橋があります!

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扁額は大宮五柱神社になっていました。

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鳥居の左手(西側の風景)

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石垣のようなものがありました。

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幅3mはないと思いますが、川が流れています。

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このあたりに住んでいたのかなーなんて思いながら歩いてみます。

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左 金毘羅道、嘉永3庚戌極月・・と書かれています。

嘉永3年(1626)、この年は丙寅なんだけどな・・??

庚戌だと、寛文10年(1670)のはず。極月は12月のことになります。

この界隈は、金毘羅街道の重要な宿場町として栄えていました。

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階段を上がったところ。

一番左の玉垣(石柱)に、高須賀東四朗重三とありました。

先祖にゆかりのある苗字を見つけるだけでウキウキします。

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松瀬川村

高須賀五良次、近藤十次郎の名がみえます。

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縣社昇格記念井戸

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(由緒書きなどなかったので、以下、『川内町誌』 より抜粋)

祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、

   瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、稚産霊命(わかむすびのみこち)、

   猿田彦神(さるたひこがみ)

境内神社 荒神社 大無主命 日廼安良魂命

     秋葉神社 軻遇突知命、弥郡波能売命

 

愛媛県神社庁のホームページには以下のように書かれていました。

大分変わっていますね・・。

三島神社大山積神)、荒神社(大物主命)、 秋葉神社(弥都波能売神、外一柱)
和霊神社(山家公)、 戎子神社(事代主命)、 八幡神社応神天皇
床浦神社(田心姫命、外二柱)、 天満宮菅原道真公)、 鎮守社(埴安姫命)
大塚神社(荏原経高)

 

由緒 北方古宮にあった当社を、応永三十四年(1427)河野通久公の御心願によって、現在のところへ御造営奉遷した。其の後、社仏廃合の時合祀して、川上大宮五社大明神と号するようになった。あわされた五社とは、来名戸宮、豊受宮、饒田宮、倉稲魂宮、浮橋宮である。この宮郷社に列して、北方、南方、松瀬川下分の大氏宮で、後県社に昇格、川上神社と改められた。(略)

 

応永中(1394~1428)、高須賀堯倫、河野家に仕え、南方村庄屋を命じられ、その子堯基が庄屋となった。そして河野家より、祈願所川上稲荷五社大明神(当神社)の社の守を命じられた。宝庫国の鍵を預かり、高須賀家代々継承。堯普が死亡したことによって社守は終わったといわれている。現存している木製の狛犬一対は、室町時代に河野家より奉納されたものだと伝えられている。寛永4年(1627)、高須賀堯章は、南方村庄屋となり、浮穴郡庄屋頭を命じられ乗馬を賜ったという。また、天保12年(1841)9月、氏子頭高須賀堯芳、重松元決、玉井正昇より、正二位飛鳩井惟光、正二位鷲尾隆純、正二位三条実萬が書いた和歌額を奉掲している。

 

つまり高須賀家は、この川上神社の守を代々継承されていたわけなんですね。

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狛犬は新しくなっており木製のは確認できませんでした。

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何の石碑かわかりませんでしたが、古そうな石碑ですぐ目に飛び込んできました。

見ると、高須賀重堯 とありました。

その上には、高須賀堯晋の名も見えます。

この堯晋が最後の社守ですね。

 

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川上郷五社神神

福人人亦真五穀

豊民寧楽威霊曜

光益新***

というように読めますが、意味はわかりません。

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ここにも高須賀東四朗の名前がありました。

東温市立図書館『川上村のおもかげ』P23には、幕末の頃の古老傳で、南方村の組頭とありました。

そして下には近藤八蔵という名がありました。

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郷社 大宮三社大明神

明治12年(1879)己卯良月三石(?)南方村中 ** と読めます。

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天満宮

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本殿

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境内は結構広かったです。

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川上神社古墳出土馬具

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こちらにも川上神社古墳の説明がありました。

大正3年に発見され、昭和25年県指定史跡となっています。

横穴式石室の古墳で、墳丘の大きさは約40mと20mの長方形または長円形で、高さは約5m。

墳丘には二つの石室があって、東側の石室は開口されているが、西側は閉鎖されている。

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らしきものを探してみるもよくわからず・・。残念。

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この社も変わっていますよね。

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あとは寄付金が書かれたものがありました。

こちらは5~7万円。

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高須賀義男さんは10萬円也。石柱も立派ですね。比較的新しいです。

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こちらは川上神社本殿修復

右から2番目に金壱萬円也 高須賀大次郎の名がみえます。

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ずっと見ていくと、金壱萬円也 高須賀●一、高須賀忠●、高須賀常久の名がありました。

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このあたりの石柱にも、細かい字で名前が書かれています。

左端の柱の一番下の右から2番目に、高須賀芳平・・かな?

 

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こちらは真ん中の柱に、金五拾円 高須賀正一とあります。

先ほどの金壱拾萬円と同じ大きさなので、おそらく時代が古く同額ぐらいかと思われます。

 

先祖と直接関係ありそうな名前はなかったけれど、おそらくどこかではつながっているんじゃないかなーと思うだけでも、なんだか嬉しかったです。

この神社では、戒能や八木の名前は見つけられませんでした。

自分のルーツを辿る 1  ルーツの調べ方

私のルーツは愛媛県にあります。

私の両親はいとこ同士なので、祖父母が姉弟です。

さらに曾祖父母も兄妹だったりします。(詳細はもっと複雑ですが・・)

そして曾祖父母の代までは、愛媛県下浮穴郡三内村(今の東温市川内村)にいました。

 

 

祖父が残した自伝がとても興味深くて、自分でも調べてみることにしました。もともと父方母方それぞれの親戚が調べていたこともあって、それを共有すればかなりのことがわかります。両方の資料が手に入る私しか、まとめることはできません。

それなら今のうちに調べておこうと思いました。

そして2016年からまとめ始めて・・すでに膨大な量になっています。^^;

もちろんまだ終わりすら見えませんが、どうルーツを調べていくのか、これから調査しようとしている方にも参考にもなればよいなと思います。

 

 

【ルーツの調べ方】

 

1.先祖の残したもの

 (私の場合、祖父の自伝、祖母の手紙、曽祖父の日記、曾祖母の手紙、両親・親戚からの聞き取り、親戚からもらった写真、地図など)

 

2.戸籍調査

 戸籍の取り寄せができるのは、戸籍に記載されている人または配偶者、直系尊属・卑属に限られています。叔父・叔母などの戸籍は委任状が必要になります。ちなみに戸籍制度は、明治5年(1872)に本格的に開始されましたので、一番遡れてもこのあたりまでです。

(私の場合、父方母方の親戚が持っていたものをもらい、それ以上のものについては愛媛の親戚に頼みました。)

*昔の戸籍は間違っていることがあります。実際の誕生日や死亡日と戸籍の年月日が違うことがあります。これは幼くして亡くなることも多く、ある程度成長してから届けたりしていたようです。

また、手書きのため漢字が間違っていることもあります。二郎が次郎だったり、虎が寅だったり。昔はあまり区別するという認識がなかったのか、もしくは使いやすい方を使っていたのだと思います。実際、松木が松本になっていたりもしていました。戸籍が必ず正しいとは考えず、どっちでもよいのだと捉えてください。

 

3.お墓を調べる

 お墓には名前、亡くなった年月日、年齢、戒名が書かれていることがあります。夫婦で入っているときは妻の名前も記載されています。文字が読めない場合は拓本を取るのもひとつ。私は写真を撮って加工して読みました。

 

4.位牌を調べる

 位牌には、名前、亡くなった年月日、年齢、戒名が書かれています。●●家代々先祖とまとめられたものでも、中に代々の名前が書かれた木札が入っている場合があります。

 

5.寺院の過去帳を調べる

 寺院によるかもしれませんが、私が行ったところでは、過去帳は亡くなった順に書かれているので、他人のプライバシーがあり見せられないとのことでした。亡くなった日と名前を伝えたら見てもらうことはできましたが、それ以上のことはわかりませんでした。

また、漢字が間違っていたり、戸籍と過去帳の名前が違ったり、戒名の書き間違いもあります。昔は長男だけが大事だったので、長女でも名前を残してないことも多いです。そして、戸籍の名前とは別に通称名があったりするので、名前が違うのはそれもあるのかもしれないとのことでした。

 

6.家紋を調べる

家紋は、自分の家に伝わる紋章。墓石に彫られていることが多いです。

あとは仏壇や着物に入っている場合があります。

 

7.苗字の由来を調べる

苗字の由来から何かつながりが見えてくることがあります。

町名から苗字をつけたり、その逆もあります。その苗字が多い地域には、歴史上の人物ともゆかりがあるかもしれません。

 

8.先祖が住んでいた地域の文献や伝説などを調べる

私の場合ですが、東温市に関する資料がネットのデーターベースで読めたので、これがかなり役立ちました。また、伊予史談会保存の資料(愛媛県立図書館にあり、事前に申請して見ることが可能)も参考にさせていただきました。当時と村名・町名などが変わっているので、まずはそこから調べました。

 

8.現地調査(神社仏閣、町など)

昔の人は信心深かったこともあり、地元の神社仏閣とは何かしらゆかりがあることがあります。 私の場合は、奉納された石碑などに一族の名前がありました。

 

 

 

私の好きな高田崇史さんの「QEDシリーズ」には、

「歴史は覚えるものではなく、考えるものだ」とあります。

また、私の尊敬する歴史地理史学研究家の中村武生先生は、

「歴史を知る上で、家系図特に女性の系図も大切だ」とよく言われています。

昔の人はどうにかして血筋を残そうとされていたんですよね。

そうして調べたことから、あとは考えていくことも紐解く鍵になります。