京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

自分のルーツを辿る21 愛媛旅行18 井内村 吉井神社

続いて吉井神社へ向かいます。

 

『 川内町誌 第二部三内 』 P 476 ~

大字井内宮の森 現宮司 権名津 渉

祭神 多紀理比売命、市杵島比売命、天之穂日命 、正哉吾勝々速日忍穂命、天津日子根命活津日子根命、熊野久須 毘 命、多岐島比売命

由緒 上古久米主命、勅命を奉じて久米郡の兵を率い来り、古耶等の蛮族を討伐平定し神籠を立て天神地祇及祖神を奉斎し給うたのを、顕宗天皇の御代 山部の連来目部小楯播磨より帰郷して深く当社を尊敬し常に参籠した所であると云う。その後淳和天皇の天長年間春江の 宿弥浮穴の千継当社を氏神として崇敬せられてから以来、名門武将の崇敬深く 順治 年中に至り河野伊豫守一族当社を析願所と定め 、以来其族或時は 神領を奉り或は 御沙汰書を納め 敬神怠る事なく、又永禄年中には小手獄城主 戒能備前守誓書及金刀を献納し、天正十八年 河内一宮日生宮新居田神社風宮、熊野宮明神 宮天神宮を合祀し 総河内八社明神 と称していたのを明治三年吉井神社と改称 し同四年村社に列せられた。

 

P486 ~ 旧井内村古社寺(組別) にもこんな記述がある。

庄屋元 ( 蔵元組 ) 五。 吉井神社 ( 祭神は所謂五男三女を紀つたのだったが、天正十八年の台 命によって左記七社の祭神を合祀 した。 河内一の宮、日生宮、新居田神宮、風宮社、熊野宮、明神宮 、 天神宮。 また明治三年 藩命によって井内村中二十三社の祭神を合祀 し た。これは吉井神社境内摂社 の厳島神社に合祀したとも云い、 又この年大平組 に あった天神宮の社殿を氏神本殿の右側 に並んで遷したが、この天神宮に祀ったとも云う。その何れが正しき や 、拠るべき証拠が 無い。

さて、その二十三社と云うは 厳島神社天満宮 、 天神宮 、 素鷲社 、竈 神社 、 一の宮 、 白尾社 、 姪子社 、 山神社 、 若宮社 、 西山社 、 熊野社 、 新田炎社 、 聖神社 、 熊野社 、 北間神社 、 金毘羅社 、 風宮社 、 鎮守三島社 、 伊弉冊社 、竈神社 、 金刀比羅社

この明治三年 の合祀と天正十八年の合祀と は重復 して同社同一 神が二度合祀 されたものも あるらしい。なほ、さきに記した摂社厳島神社の社殿は今は跡形も無い。 大山組から移した天神宮 は正殿一間半 四面 、中 殿三 間に一 間半 、 拝殿三間 に二間半 である。 吉井神社の 神宝として古来鎧一着、大太刀一振り、中殿に大鈴一個 あったが、太刀は今はない。これはもと 戒能備前守通森の寄進したものだと伝えられている。境内には欅材の大 華表、石の手水鉢、石燈籠二対、自然石の兜石一個がある。

 

合祀されすぎ・・。

毅の日記にこういうのがある。

「村の氏神吉井神社の祭礼(10月15日)に私が獅子起こしをつとめたのも、同じ大正四年の秋であった。獅子起こしとは獅子つかいのことで、獅子舞いの相手をつとめる少年である。獅子には采配や 弓や薙刀で立ち向かうのだが、何といってもまだ5才の幼児なので、薙刀は省略して、軽い采配と弓だけを使うことになった。トンチリ、トン チリ、チリリンリン、トンチリトンチリリンと鳴る太鼓に合わせて十歩ほど進み出て、そこに眠っている獅子を采配でポンと打つ、すると獅子 が目を醒まして立ち上がり暴れ出すのを、采配や弓で防ぎながら後さがりする、といった簡単な所作を毎晩30分ほど稽古をした。(略)私は顔に白粉を塗られたり紅を刷かれたりした。口紅を塗られるのを嫌がって駄々をこねた のを憶えている。衣裳はあらかじめ用意されていた。下着はどん なものだったか忘れたが、金銀糸でぬいとりされた袖の短い黒じゅすの上着に、 力士の化粧まわしのような、きらびやかな模様の裾に金モールの飾りのある前垂れを締め、赤、緑、白、三色三本のちりめんの布を襷にして、 背中で斜十文字になるように結び、その端をだらりと長く垂らした。頭には錦の帯で鉢巻をし、手には小さな鈴のついた、やはり黒じゅすの籠 手をはめ、足にも黒じゅすの脚絆をつけ、小さな黒足袋にわらじ穿きだったと思う。(略)社殿の前の広場には蓆が十枚ばかり敷かれ、それを囲んで大勢の晴れ着すがたの男女や子供たちが待っていた。神主が祝詞を あげそこで先ず太鼓が鳴り出すと翁面の青年が出て来て種蒔きの所作をして引き揚げる、そのあとへ猿や狐の面をつけた青年たちが出て来て、 蒔いた種を拾って食べてまわる所作をする。そのあと獅子舞の 段になり、私が最初は采配で、次には弓で、獅子起こしをするのである。その合間に、二人ほどの青年がにわか狂言を演じたりする。獅子舞がすむと、蓆は巻いて取り除けられ、それまで社殿に置かれていた御輿がかつぎ出されて、境内でひと練りした挙句、御旅所へ運んで行かれる。 御旅所は社殿のある平面から二十段ほどの石段を下り、橋をわたり、三つの鳥居をくぐってから百五十メートルほど行ったところにあった。そこで再び獅子舞などが演ぜられ、そこで一休みした後、御輿は氏子たちのいる村を巡回するのだが、村が広く、山坂 道ばかりなので、毎年順番に一つか二つの地域を巡回するだけだった。その年は私が獅子起こしをつとめたので、北間と隣の中屋でも巡回したようである」

 

見る限り結構華やかな祭りだったのではないでしょうか。

獅子起こしはお金もかかるのである程度裕福でないとダメらしい。

京都でいうお稚児さんみたいなものでしょうか。

神輿のことなども書いていますが、長いので略しています。

昭和3年なのでまだ新しいですね。

新しいから真剣に撮影していませんが・・

世話人として菅野さん、八木さんほか寄付した人の名前がありました。

これは明治24年とあります。

書体がとっても可愛いですね。

ちょっとわかりにくいですが、紀元五百●十年?

下に世話人として戒能仲治や、八木市内などの名が見えます。

この狛犬大山祇神社で見たものと同じ姿でした!

 

これも昭和3年でした。

古そうに見えたのに・・

戒能忠次とか読めました。

八木左作。

毅の日記にも出てきた人だーとw

生家の北側の北間側を超えて300mほど行ったところに住んでいた方ですね。

3代ほど前に10km先の別の村から引っ越してきた人で、屋敷名を「びやがそ」。

先祖の屋敷名は「さき」。口論することもあったが仲良くやっていたらしい。

墓地の土地を貸して共同墓地になっていたのだそう。上手がうちのだとか。

 

これも名前は見えるんですが、なんて書いてあるのかほとんど読めなくて残念。

八木仲五郎、戒能仲次、菅野亀治郎の名が見えます。

日露戦役凱旋記念

拡大してもほとんど読めず・・。

従軍者として名前が連ねられています。

村長戒能大次の時ですね。

明治40年3月

 

本殿・拝殿も新しい・・。

昭和46年に改築したようです。

そして表撮るの忘れていたみたいです・・( ̄◇ ̄;)

杉の木があって、昭和3年に天然記念物に指定され、樹齢約1600年で有名とのこと。

 

昔はこういう茅葺だったのですね。

古そうに見えたけど、これも昭和3年・・。

戒能・・なんて読むんだろう?

安政三年丙辰年 かな?

戒能通?

戒能義二郎

何かわからないけど、三角形なのが面白いですね。

 

裏には創設のことが書かれていました。

当社は和銅6年勧請、宝暦●年に再建、昭和8年に社殿改築云々。

 

先祖に繋がりそうな名前は見当たりませんでした。

文字が読めたらあったのかもしれませんけどね。

 

自分のルーツを辿る20 愛媛旅行17 井内村 北間

さて、少し戻って北間(きたはざ)へ。

この道の先が善城寺になります。

お花の右側にお墓がありました。

ちょうどぼたん茶屋の奥様がお手入れをされていて、尋ねるとそちらのお家のでした。

でも事前に地図を見て、生家の場所の見当をつけていて、だいたいこの辺りかな?とみていました。

車を置けるスペースもあったので、置かせてもらって、ちょっとウロウロ。

これが北間へ上がってきたところの、道路の左側です。(善城寺から見たら右側)

くねくね曲がりすぎて方角わかりません・・。

あとで航空地図で確認!

ぼたん茶屋の北側のグレーのところが砂地で、車を止めていたところになるので、

そこから東北方向ですね。家の屋根も同じです。

蕎麦畑とあるところがお花があるところですね。

 

<剛の日記より抜粋>

北間は井内のほぼ中央にあり、井内川に臨む南向きの斜面を占めている。

私の生家はその斜面の更に中程にあった。

家の敷地300坪ほどと、その前方に広がるやはり300坪ほどの田圃が同じ平面にあるだけで、その前後左右は狭い棚田の重なったかなり急な斜面になっていた。

生家の前の同じ平面には、五枚合わせて300坪ほどの田圃があるが、その向こうは狭い棚田が重なって、井内川の渓谷へ下だっており、渓川を隔てたその真正面は一面 に竹の生い茂った急斜面の丘で、頂上には古い城址(小手滝城)があった。

屋敷の西側は1.5メートルほどの高さの石垣の下に狭い棚田が三枚重なった下の手に地蔵堂があり、その下方は急斜面の畑になっているのだが、家からは見えず、はるか彼方の下の方、黒岩部落の裾に村社吉井神社の森が見えた。

北側は屋敷のすぐ裏手が草と潅木の生えた急な斜面となり、小さな渓川の向こうはまた棚田の重なった斜面で人家がいくつか見える。その斜面の向こうには東方から山の尾根が延びていて、楢や檪、松などが生え、杉林になっている所もある。その尾根の上、はるか彼方に大熊山(標高905メートル)という大きな草山がそびえている。

屋敷の東側は、1.5メートルほどの高さの石垣が次第に低くなりながら南側の中程まで続いていて、その上には東南角を中心に杉の大木が10本ほど立ち並び、残りの東側には樫、山椿、茶の木などが次第に低い木になりながら北の方へ続いていた。それに沿って1m幅ほどの 道があり、道の東側はまた1mほどの高さの平地になっている。

私の生家そのものだが、その敷地は前にも述べたように約300坪(約990平方メートル)で、東側はほぼ一直線だが、西側はかなり凸凹のある長方形であった。東南角を中心に東側の四分の三ほどと、南側の三分の二ほどは、敷地の平面より高い石垣になっており、西側は南 から北へかけて四分の三ほどが、屋敷の敷地を区切る石垣になり、その残り四分の一と北側とは草や木の生えた斜面になっていた。建物は母屋と付属の建物四棟から成っていた。

生家の母屋は萱葺きの入母屋造りで、建坪は32坪。母屋の北側には5mほど離れて、母屋よりも一回り小さい、やはり萱葺きの建物があった。

母屋と納屋の中間の西端、納屋寄りのところに井戸小屋があった。納屋の北側のやぎね(軒下)には、稲架用の長い丸太棒がうずたかく積まれていたが、そのやぎねの端の敷石から二メートルほどの間隔を 置いて菜園と果樹園があった。 その2m幅の通路には、東の端がゆるい坂道となって、東側の石垣上の生垣に沿う道へ登っていた。つまり、風呂場と便所の建物の北側 近くに、北間川の方へ行く道への出口があったわけである。

納屋の北側に沿う通路は、出口のところから西へ20mほど、次第に低くなる石垣になり、その石垣が消えて平地と同じ高さになったあたり、牛部屋の真裏のあたりに、4坪ほどの古い墓地があって、周囲に3、4本の 樒の木があった。 わが家の墓地は北間川を越えて北へ200mほど行ったところにあったのだから、こ れはわが家の先祖の墓ではなかった。十数基あった 墓碑はいずれも小さくて古く、欫けたり摩滅したりしていて戒名も読みにくかった。信士と信女、それに童女というのもあったと思う。いわゆる無縁墓であった。

 

これでもかなり抜粋・・。

詳細なので場所も特定できそうなのですが、さっぱりわかりません。

でもこの蕎麦畑より東側であっていたようですね。

砂地のところから北側に橋、川もありました。

これが北間川ですね。

毅の日記に書いてあった内容から予測した場所では、先祖の墓はこの川を渡って左手のはず・・。

でも上がり方がわからない・・。

囲いがしてあるし、よそ様の土地にズカズカ入れませんしね。

ってことはやはりあっているはず・・。

と思うんだけど、おじさんおばさん、先にぼたん茶屋へ行っちゃう・・

おいおーい、待って。。(泣)

とそこへ、近くのぼたん茶屋のご主人永井さんが来られました。

先ほどお会いした奥様が、旦那さんが八木家のことをよく知っているとのことで、呼んできてくださいました。

この倉庫は新しく建てられたものですが、この辺りに八木家の納屋があったらしい。

逆側から見るとこんな感じ。


そしてこの前にあるお墓が八木家の先祖のものだと聞いているとのことでした。
うーん・・。

一応写真は撮りましたが、毅の日記でもこの墓は無縁墓で、先祖代々のものは別のところにあり、ついでに守りはしていたとありました。

そして納屋ではなく、牛小屋があった場所ですね。

 

一応略メモ:天命7未年、文化13年、文政●年正月27日?、寛政7年7月?、とか信女とか見えます。でもほとんど読めません。

 

(後日談)永井さんに日記の一部を送ったところ、やはり最初に思っていたところにお墓があるとのことでした。また次に行った時にご案内していただくことに。こうしてご縁が繋がってありがたいことです。

 

そして、せっかくですので、ぼたん茶屋にお邪魔することにしました。

宿泊室にもなっていて、ピザが焼けたり、どぶろくで賞も取られていたりされています。

素敵なところですね〜。

変わった家紋ですね。

 

こちらはまだ桜が咲いていました。

もちろんぼたんもたっくさん。

白い藤までありました。

お花が好きなおじさん、おばさん、すっかりたくさんのお花に夢中・・。

こらこら、今日の目的はそれじゃないから、少しでも時間が・・と私は気が焦ります。

おばさん、愛媛なんだし、ここまでは来れるんだから、また改めて来てね^^;

 

お茶と甘酒をいただきました。

この甘酒がホント美味しいんです!

お土産に買って帰りました。冷凍ですが、ホテルに着いた時には溶けちゃいましたが・・。

家で冷やして飲みました。ノンアルコールなのがいいですね。

 

この山が、かつて小手滝城があったところ。30分くらいで上がれるそうなので、次来た時には上がって見たいですね。

宿泊施設も見せていただきました。

次回はここに泊まろうと思います!

そして、曽祖父のことを知っている方がまだご存命だそうで、お話が聞けるのも今のうちなので、年内には行きたいですね。

 

奇しくもこの日は祖父毅の誕生日でした!

後で聞いた話・・びっくり。

母の弟や父が来た時は誰とも会わずに帰ったそうなので、

これもきっと祖父が繋いでくれた縁なのでしょうね。

 

自分のルーツを辿る19 愛媛旅行16 井内村 善城寺

今年4月、親戚を巻き込んで、念願の井内村へ行ってきました!

母の姉、父の兄、そして父方の従兄(といっても父と変わらない年齢)と・・。

井内村は細道、山道なので、高齢者には運転は困難とも言える場所なので、ここは従兄頼りです。温泉宿を経営していた縁もある鷹ノ子で宿を取り、そこからいざ井内村へ〜。

従兄さん、山道なのに運転早すぎて、うまく写真が撮れません・・。

でも思っていた以上の段々畑でびっくりしました。

どうやら結構有名らしいです。

まずは北間の奥にある善城寺へ。

事前に下見に来てくれたそうで、スムーズにいくことができました。

桜の季節は少しすぎてしまいましたが、わずかながらまだ咲いていました。


階段を上がると、可愛らしいお地蔵さんが迎えてくれます。

 

『川内町誌第二部三内』P483〜より抜粋。

大字井内仲屋

寺号 石林山滝本坊善城寺

宗派 往昔高野山金剛三昧院末であったが、明治時代より大和国長谷寺末、新義新言宗豊山

本尊 延命地蔵

由緒 本寺は往古火災に罹り記録等一切炎上するに至る。他の旧記によると、相当古き歴史を有し、往昔当村には善城寺、大通寺、有積寺の三ケ寺が有ったが天正十八年の革命によって廃合して現在の善城寺を残すとある。

伊像旧記編、和銅六年の酉の口、国司散位太夫正五位小千宿弥玉興玉純父子神殿を建営別当寺善城寺、大通寺、香積寺欽行之

伊豫漫遊記抄 浮穴郡拝志郷井内名、元弘の頃河野備前守通郷の軍功により領する所なり(中略)代々の菩提寺、大通寺あり。

戒能略譜 戒能通森の父、安国寺華光和尚に参得して、既に居士号を賜はり、掛落を許さる。是に依て、井内の山下に禅庵を作り、華光和尚を請待して隠寓の地となし、善城寺と扁せり。その後大熊の城頽廃してより、善城寺の住持も変革し今既に宗系も相違し来る。本寺は往古より桜をもって名あり、春は桜花爛漫としてその名隠なし。現住松本義法。

 

毅の日記には「井内村で養蚕をしていたのは我が家と善城寺のみだった」とありました。

下調べて本殿に菊の御紋があったのも気になって見に行きましたが、

後で聞いた話、天皇とは関係ないそうです・・。

 

ざっと見ましたが、火災があったせいか、関係ありそうなものは見つけられませんでした。

 

自分のルーツを辿る18 愛媛旅行15 伊予國一の宮 大山祇神社

今年4月、二度目の愛媛現地調査へ行ってきました。

その前に、愛媛の一宮に行きたくて、山口のおじさんと岡山で合流して、無理やり車で連れて行ってもらいました。

多々羅大橋

たたら製鉄でもあったのかな?

瀬戸内海の小島を渡っていくのはなかなか面白いですね。

(運転は怖かったけど・・)

まずはすぐ右手にある絵馬殿。

河野通信の絵が!

まあ、大正5年って新しいですけどね。。

左側には、本姓越智伊予の人で、父は通清。身長8尺(240cm・・いやありえん・・)、形貌異常(そりゃそうでしょー)。いわゆる武勇伝が大げさに書いてあるようなのでスルーします。

昭和8年。左上に大山祇神社とあり、河野氏が大島の様子を描いたものを奉納したようですね。

鶴姫祭の小松屋台。神輿みたいなものでしょうか。

御桟敷殿。

橋を渡って総門があります。

通例でいうと、ここも怨霊を祀っているってことでしょうか。

広々とした参道にちょっとびっくり。

斎館

そしてふっと見落としそうなところに何か見える!

宇迦神社。

ということはもちろん祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)ですよね。

この狛犬、すごい珍しい!

後ろ足を上げているのがユニークです。

かなり惹かれました。そしてこれがこの後の井内村、須之内村でもあちこちで見られてびっくりでした。

拝殿の向こうに橋、社がありました。

十七神社

室町時代の長棟造。

中が見れないのが残念ですが、木彫りの御神像が安置されているとか。

知命(おちのみこと)の手植えの楠

葛城神社、祓殿神社、伊予國総社

河野家とゆかりがあるので家紋があります。

拝殿・本殿

大根締めの注連縄。

通有の兜掛けの楠

弘安4年蒙古襲来にあたり通有は当社に参詣祈願し、三島水軍を率いて筑前に進発し当神社の神使白鷺の導により勝利を得る。その出陣の際兜を掛けたと伝う、と書いてあります。

本殿右手の橋を渡ると・・

 

宝篋印塔があります。

鎌倉時代重要文化財時宗の開祖一遍上人河野通広の子として、

松山法厳寺で生まれ、三島水軍河野通信の孫にあたり、一遍上人の絵伝に知られる通り、大三島宮の参拝の折に奉納したものです、とあります。

義経の 鎧まばゆし 緋縅の

真紅の糸も今が燃ゆがに

吉井勇の歌碑

 

もちろん宝物館も入りました。

全国の国宝・国の重要文化財の指定を受けた武具類の約8割がここにあるんだとか!

河野通信の奉納した鎧やら、義経の奉納した鎧(ちょうど少し前にレプリカを見ていたので、感動!)やら頼朝奉納の鎧・・。

他、義仲、護良親王、もちろん刀とかずらり。

これは一見の価値ありです。

そして西に進んでいきます。

日鉄鉱業(株)物故者慰霊塔

それにしても変わった形ですね。

 

祖霊社

 

河野家の家紋があります。

現住所大阪となっていますが、

長堀橋築20年
越智姓河野庚蔵通寛 

嘉永元年生

と読めました。

神輿庫

左から御鉾(おほこ)神社、八重垣神社、酒殿

手前から、石神社、稲荷神社、地神社、院内荒神

本殿裏、姫小邑(ひめこむら)神社

隼人の舞

薩摩の隼人族が大和朝廷の貢物とした芸能が隼人舞だと言われている。

その祖形は山幸彦が海幸彦に勝利した物語を表現したものとも言われ、隼人族と朝廷との親密な関係があったことが「日本書紀」から読み解ける。

現在隼人舞hあ隼人の鹿児島神宮で伝承されており、

歌舞伎成立以前の古代芸能として、大変貴重な文化遺産である。

と書いてあります。

歌舞伎以前の芸能・・見てみたいですね。

 

 

明智藪、小栗栖八幡宮(小栗栖城/小栗栖館)

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地下鉄石田駅から歩くこと数分・・。

民家の中を通って行きますが、途中に案内板が出ているのでわかりやすいです。

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「近江坂本城明智光秀は1582年(天正10年6月2日)早朝中国地方へ出陣のため上洛していた織田信長を本能寺に襲撃して自刃させた(本能寺の変)。その後光秀は6月13日山崎の合戦で秀吉軍に敗れ、近臣中数名とともに暗夜に乗じて坂本城を目指したが、途中小栗栖の付近に差し掛かると信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃によりあえない最期を遂げたと言われている。

この明智藪は今日に至るまで戦国武将明智光秀の終焉の地として傳えられており、現在は西側にある本経寺(日蓮本宗)の寺領となっている。

平成3年2月吉日 京都洛東ライオンズクラブ

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石碑のさらに奥に行くとちょっと藪らしきものはありました。

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が、右側はこんな感じでした・・。

 

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ついでに小栗栖八幡宮も行ってみました。

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こういうちょっと高台にあります。

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「祭神:応神天皇仲哀天皇神功皇后

創建:清和天皇貞観4年(西暦865年)竹内宿禰の子孫である紀古道(別の説明では紀興道とも)という人が関東の守護を命じられ下向するにあたり、男山八幡宮の分霊を勧請し此の地に小栗栖八幡宮を創社したと伝えられています。社頭が東を向いているのはその謂れを示しています。爾来(じらい/以来)この小栗栖の産土神として人々の尊敬を集め今日に至っています。」

よ・・読みにくい。

調べたらコース図というのがあって、これと同じ文で読み取れたので参考にしました。

 

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ちなみにここは小栗栖城(小栗栖館)跡でもあります。

鎌倉末期に地頭として入った飯田源源五郎家秀が築城し、その孫の永盛がこの地に住んだとされています。以後飯田氏の居城となり、代々神主を務めたようです。

明智光秀を討った飯田一党のことですね。

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この石垣が当時のかな・・とも思いながら。

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本殿正面。

 

それにしても薄暗い寂しい場所に住んだのですね・・。