京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

自分のルーツを辿る12 愛媛旅行⑪ 松山市 湯築城跡Ⅱ

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岩崎神社(松山市

祭神:白人明神小千命、河野家累代の霊、土居備中守の霊、得能備後守の霊

建長年中 別府弥七朗●(米に秀)創祀

貞亨2年 道後温泉閉塞、里人相談し神楽を奏す。

     霊験をえて再び報賽の神楽を奏す。

元禄年中 安田氏 心願により改築

享保20年 里人拝殿を再建す

 

 

 『愛媛 CATV 岩崎権現』より

「岩崎権現」や「道後の岩崎さん」とも呼ばれている。道後公園=湯月城跡は、建武年間(1334~41)河野通盛が築城した。当時、庭の一隅に小祠を建てたのが始まりだという。神社が庭の端にあるから「庭先神社」、これが訛って「岩崎神社」のいうのが社号の起こりという。  昔、東堀の土手には竹薮があり、春先の竹の子を、ある男が堀りにきた。竹の子堀りにきておかしなことに眠気がさしてきた。そばの木の根元に座り、腰の煙草入れから煙草を出して一服吸い、吸殻をぽんと木の根にはたいた。すると木の根がぐらりとゆらいで、よく見るとそれは大きな蛇であった。その蛇の長さは、ずっと義安寺まであったという。 男はそれっきり気を失って大蛇に飲まれて死んでしまった。そのあともこの大蛇に飲まれて死んだ者は何人もあったという。 村人はほとほと困り神社を建立し蛇が暴れないように祈願した。やがて大蛇は暴れなくなり、岩崎神社はこの蛇を祀っているという。河野氏の祖である小千命は白人明神と崇敬され、俗に「白蛇」と言われ、この小千命が祀られている。そのほか河野家代々の霊、その後土居通増、得能通綱(星が岡の戦いで有名な南北朝時代の勇将)も祭神として加え祀られている。  元禄15年(1702)、竹奉行安田又之允源義行が、神霊を古城の南で拾って岩崎大権現を再興したという。 祭神が蛇なので卵が奉納されることもあり、信心すれば脳、神経痛に効くと言われる。9月14日、15日が例祭である。

 

 こういった伝承にも意味はあります。

竹=筒=ツツ=蛇のことになります。

そして祀られている土居、得能(とくのう)は共に河野氏の支流(予州)になります。

河野宗家と予州は、長い間争いが絶えなかったと言われています。

湯築城の築城者と伝わる河野通盛(宗家)は、延元元年(1336)足利尊氏後醍醐天皇に反旗を昼がした際に、足利方(北朝)につきます。一方予州は南朝後醍醐天皇)につきます。土居通増と得能通綱もともに後醍醐天皇に味方しますが戦死します。

その後も、宗家河野通久(通義の子)と予州河野通元(通義の弟通之の子)との家督争いが続き、通久の子・教通と通元の子・通春の代になると家臣団を二分して争いが激化していきます。

 

大蛇の長さが義安寺まであった・・・というのは、この予州の軍がそのあたりまであったということではないでしょうか?

その抗争で亡くなった河野家家臣のために、そして二度と反乱がおきないように、と祀ったのではないでしょうか。 

ちなみに煙草は江戸時代16世紀末以降に輸入されたもので、河野家が降伏して湯築城を手放した1585年にもないので、些細なことから合戦にまで発展したことが、その後話に尾ひれがついたものと思われます。

 

また、蛇=大物主神(おおものぬしのかみ)=天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)=物部氏の先祖

そして念のため確認、社殿は東を向いていました!まさにアマテルさんだー♫

 

そして、物部氏の一族である小致命(おちのみこと)が越智・河野の先祖になるので、繋がりますね。

詳しく気になる方はこちらもどうぞ。

 

 

 

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河野区城址碑  昭和16年11月建

 

まだ新しいですね。読めるところだけ^^;

河野氏元越智氏 孝霊天皇の*乎致命に出つと****應

天皇の朝伊豫小市國造に任せらる後*居を河野郷に遷

し以て氏とし高縄城に*り治を伊豫に布く承久の乱河野

通信義兵を京畿に出して精忠を挿んで元寇の役伊豫水軍

の師河野通有進撃不逞を戮して困難を救ふまた清僧一遍

出てて時宗を開き聖教洵に萬世に薫る建武中興には土居

通増得能通綱支族より出でて向公の忠節に殉す後更に居

を道後に遷し湯月城を築く河野通直の時に至り豊臣氏

攻むる所となりて滅ぶ時に天正十三年九月正に六十余代

千三百有餘年也亦偉なりと謂ふ*し項曰慈光曾教王座覚

尼この祖地に巡錫し轉その桑海の変を悼む同信相寄り慈(下、心なし)

にこの碑を建立し以て世に河野氏の遺績を得*」

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新しいですが、河野家の家紋がありました。

ただ、敵対した宗家と支流を一緒に祀ることもないと思うので、

支流の方の河野家と思われます。

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 石造 湯釜

現在の道後温泉本館ができた明治27年(1894)まで使用されていたもの。

直系166.7cm、高さ157.6cm、花崗岩製。奈良時代天正勝宝年間(749-757)につくられたと伝えられています。

湯釜上部に置かれた宝珠の「南無阿弥陀仏」の六字は、河野通有の依頼により一遍上人が刻んだものといわれています。

湯釜本体には温泉の効験に関する文が刻まれており、天徳寺の徳王禅師の撰文になるもので、享禄4年(1531)河野通直が石工を尾道から招いて刻ませたものになります。

 

これもブラタモリでやっていましたね。

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(左)

天平勝宝元年平智宿禰

**僧*基相謀初而湯

釜設享禄四年河野太郎

通直之修営明治二十七

(右)

宝珠型*六字一遍上人

 

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**温泉碑

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小林一茶正岡子規夏目漱石の句碑もありました。

 

いつも車で公園前を通る時に気になって気になってしかたなかったので、

ようやくこれてよかったです。

ただ悔いは・・叔母がばててたので、山の上まで上がれなかったこと。

やはりこういうのは一人出回る方が良いかもですね。