粟田口の石碑は、三条神宮道下がったところにあります。
案内板によると
「粟田口とは、三条通(旧東海道)の白河橋から東、蹴上付近までの広範囲にわたる地名。この付近は奈良時代以前から開かれた土地で、粟田氏が本拠とし、粟田郷と呼ばれていた。平安京ができると、東国との交通の要地あるいわ軍事上の要衛にあたることから、やがて粟田口(三条口)と呼ばれ、京都七口の一つにも数えられた。
鎌倉・室町時代にはここを通って馬借や車借など運送業者が物資を運んだ。江戸時代には東海道五十三次の西の起点、三条大橋を間近に控え、人や物資の往来で一層にぎわった。
またこの付近には、平安時代の末以降、刀鍛冶たちが住居を構えていた。中でも童子に化けた狐に鍛冶の手伝い(相槌)をしてもらい名刀「小狐丸」を打ったという伝説が残る刀匠・三条小鍛冶宗近が有名である。江戸時代の元和年間(1615~1624)には、瀬戸から焼き物の技術が伝えられ、粟田焼と呼ばれる陶器の産地になった。この右手にある門跡寺院青蓮院は、粟田御所とも呼ばれている。」
ちなみに京都七口とは、京に繋がる街道の出入り口のことで、
鞍馬口、大原口、荒神口(もしくは今道の下口)、粟田口(もしくは三条口)、伏見口(もしくは五条口)、竹田口、東寺口(もしくは鳥羽口)、丹波口、長坂口(もしくは清蔵口)
といわれていて、史料によっても異なっているため定まっていません。
こちらは18基の剣鉾を持っていて京都最大!
今年はここの剣鉾を見たいと思って・・そういえばお参りしたことがないと気づいて行ってきました。
先に記述の瓜生石もこの関係です。
案内板によると
「粟田神社は、旧粟田口村の産土神である。江戸時代までは感神院新宮あるいは牛頭天王を祭ることから、粟田天王社または粟田八王子社と呼ばれていたが、現在は素戔嗚尊ほかを祭神とする。社伝によると、貞観十八年(876)に従五位上出羽守藤原興世が勅を奉じて勧請したことに始まり、その後天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(1113~1118)に再建するが、応仁の乱で焼失し、明応9年(1500)に吉田兼俱が再興したという。
本殿・幣殿は昭和8年の棟札写から、文化2年(1805)6月に焼失後、文政6年(1823)に再建されたことが明らかとなる。建物は、三間社流造りの本殿の前に桁行二間、梁行三間で正面に方一間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ、また流造りの屋根の前に入母屋造、妻入、さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観を見せており、江戸時代後期の複合社殿としては価値が高い。
拝殿は各日は史料を欠くものの元禄16年(1703)に建てられたと伝え、細部様式もこのころのものと判断される。本殿・幣殿より建築年代はさかのぼるものの、これらと一連のものとして貴重である。」
本殿、幣殿、拝殿は、京都市指定有形文化財にも指定されています。
(三条通りの案内板より記載)
祭神
建速素戔嗚尊(たけはやすさのおのみこと)
大己貴尊(おおなむちのみこと)
左殿 八大王子命(はちだいおうじのみこと)
八嶋士奴美神・五十猛神・大屋彦神・大屋媛神・抓津媛神・
須勢理媛神・大歳神・倉稲魂神
右殿 奇稲田媛神(くしいなだひめのみこと)
神大市媛神(かむおおいちひめのみこと)
佐須良媛神(さすらひめのみこと)
由緒
古くは山城国愛宕郡下粟田郷に属し、粟田郷は上粟田(北白川、浄土寺、鹿ケ谷、岡崎)、下粟田(三条以南)に分かれ、この地は上古のころ孝昭天王(人皇五代)の皇子天足彦国押人命を祖とする一族が住み鉱物を穿ち粟や瓜を主食として、中古粟田神宮が奉祀されるや一族粟田の社人として移り、土地名を残すのみとなれり。その氏神として上古より祠ありしが人皇五十六代清和天皇貞観十八年(876)悪疫流行のため奉行藤原興世に勅して都の東、白雲の泡立つ郷の霊地に一社を建つ。これ當社の社伝による創祀である。又伝う往古八坂神社を感神院と稱するに対し、当社感神院新宮と稱し、祇園会無き年は当社の祭礼とて祇園会の代わりとなす記録あり。
依りて当社は祭礼は祇園会の始めの形なりと云う。
なるほど!
粟田祭が祇園祭のかわりとされていたのは知っていましたが、関係性がわかっていませんでした。
これを読んで納得。祇園祭を調べていて剣鉾にも興味を持ったわけなので・・ますます粟田祭が楽しみになりました。
それにしても、「粟や瓜を主食・・」に引っかかってしまいました。
確かにその時代だったら食べてますよね。
そうなると瓜生石もやはり瓜と関係するのかもしれない・・。
また謎に包まれてしまいました。
御神馬
この銅馬は明治44年に奉納されたものです。
申年もあって、三猿のはりぼてが飾られていました。
舞殿
手水。なんと自動式!
これにはびっくり・・
本殿
獅子の彫刻がありました。
北向稲荷神社
祭神:雪丸稲荷他三座
雪丸は、三条小鍛冶宗近が、刀を打つ時に合槌したお稲荷さんといわれているそうです。
太郎兵衛神社
青蓮院の御門の西に奉祀されていた土地の守り神だそうです。
左 朝日天満宮
右 多賀社
大神宮
もともと、青蓮院の坊官、鳥居小路家の旧宅地の鎮護神だったそうです。
出世恵美須神社
もともと、三条蹴上の夷谷に奉祀されていたもので、
源義経が、奥州下向の際に源氏再興の祈願をしたといわれています。
ただ・・これは伝説かなぁ?
私が持っている義経関係の本、特にこれは伝説や物語を省き確実な史料を元に書かれているものです。これには出てきませんでした。
もう一つの本にも載ってなかった・・。
粟田口のある三条通が、東海道中山通を抜ける道なので、奥州に行くときは夷谷(三条通にある)も通るし、その際に祈願はしているかもしれませんけどね。
吉兵衛神社
青蓮院の御門の東に奉祀されていた土地の守り神だそうです。
岩が祀られていました。
ここに川でもあったのでしょうか?
石があるのを見て、ちょっと蚕の社を彷彿させました。
聖天社再建予定地
明治時代の廃仏毀釈により撤去されてしまいましたが、
祀られていた聖天像は本殿にあるそうです。
ここからの眺め。
平安神宮の鳥居が見えますね。
社務所の左手に、剣鉾ののれん?がかけられていました。
お姉さんに教えてもらわなければ気づかなかった!
そうそう、祭近くなると、毎週水曜日の夜に、剣鉾の剣差しが北白川の方からも来て、練習されるのだそう。
鍛冶神社は、粟田神社本殿の階段下にあります。
祭神
三条小鍛冶宗近命
粟田口藤四郎吉光命
ここの彫刻が見事でした。
明治天皇御髪 とありました。
看板によると
「ここは刀匠三条小鍛冶宗近が常に進行していた稲荷の祠堂といわれ、その邸宅は三条通の南側、粟田口にあったと伝える。
宗近は信濃守粟田藤四朗と号し、粟田口三條坊に住んだので、三條小鍛冶の名がある。稲荷明神の神助を得て名剱小狐丸をうった伝説は有名で、謡曲「小鍛冶」もこれをもとにして作られているが、そのとき合槌をつとめて明神を祀ったのがここだともいう。なお宗近は平安中期の人で、刀剣を鋳るのに、稲荷山の土を使ったといわれる」
宗近と藤四朗って同一人物だったんですね!
てっきり別人かと・・。
(鍛冶神社の籐四朗吉光とはまた別人のようです、ややこしい)
そして稲荷・・鋳成り・・ここでも結びつきがありますね。
気になる方は、こちらをどうぞ。
一軒家の間を抜けていくとありました。
意外と新しそう?