京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

東京② 将門塚、烏森神社

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将門塚は、大手町駅C5出口すぐのところにあります。

・・このときC5が工事中で、違うところから出たのもあって、

ナビ頼っていきました^^;

オフィス街のビルの間にあるのが不思議な感じです。

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中は思っていたより広くてびっくり。

昔はこのあたりを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあったそうです。

 

江戸時代の寛文年間は、酒井雅楽頭の上屋敷の中庭だったそうな。

歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところでもあるとありました。

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桓武天皇5代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起こして板東八ケ国を平定、自ら平親皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛藤原秀郷の奇襲を受け、馬上陣頭に戦って憤死した。享年38歳、これを天慶の乱という。

将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これすなわちこの場所であり、将門の首塚と語り伝えられている。(一部略)」

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参道というのかわからないけど、90度に曲がっていますね。

ガラスケースで覆われて頑丈なのにもびっくり。

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塚の後にある石塔婆は、徳治2年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻したそうです。

ちょっと見落とすところでした。

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カエルの焼き物がたくさん置かれています。江戸實測図 (南)

将門の首が帰ってきたことにちなんで、「無事に帰る」という祈願をするのだそう。

 

ちなみに一応検証。

江戸實測図 (南) | 古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)

 

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江戸時代の地図と今の地図を比較してみました。

芝公園あたりに増上寺があるのと、皇居の形で形はぴったり。

将門塚あたりをズームすると・・

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一橋殿 酒井雅楽頭、とありました。

結構大きなお屋敷ですね。

 

 

独立行政法人国 立公文書館所蔵
「新編武蔵国風土記稿」豊島郡  神明社地図

こちらも江戸時代1830年に完成したもの。

 

神明社地図

たぶん移転後の絵でしょうね。

1616年以前の移転前の地図が見たいなぁ・・。

 

さて、続いては烏森神社です。

 

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烏森神社は、新橋駅から少し歩いたところにあります。

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変わった鳥居・・。

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拝殿も同じ形をしています。

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祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、

   天鈿女命(あまのうずめのみこと)、

   瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)

 

由緒書きより

「このあたりは武蔵野国桜田村と呼ばれていて、江戸湾の砂浜で一帯は松林でした。

そのためこの地帯は枯洲の森、あるいわ空洲の森といわれていました。

さらに烏が多く集まっていたことから烏森と呼ばれるようになりました。

 

平安時代天慶3年(940)に平将門が東国で叛乱を起こした時、征討将軍 藤原秀郷(俵藤太)が武洲のある稲荷に戦勝祈願したところ、白狐がやってきて白羽の矢を与えました。その矢を持ってすみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社勧進しようとしたところ、夢にまた白狐が現れて、神鳥の群がるところが霊地だと告げました、そこで桜田村の森まできたところ、夢の通り烏が群がっていたのでそこに社頭を創建したのが起こりであるといわれています。明治6年に烏森稲荷を烏森神社と改名しました。現在の社殿は昭和46年に造営されました。」

 

 

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ちょうどこの烏森神社に参拝した日は、初午の日だったので、

この日限定の御朱印とかお守りなんかもいただきました。

(ほかの神社は、またおいおい書きます)

 

初午は2月最初の午の日で、稲荷社の祭りの日にあたります。

稲荷社=倉稲魂命だからですね。

 

  

平将門は本当に怨霊なのか?

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