京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

自分のルーツを辿る17  資料調査について

「ルーツを調べるのに、資料調査って何をどうするの?」

 

そんな疑問をお持ちの方に、私なりの資料調査の仕方になりますが、

書いていきたいと思いますので、少しでもご参考になればと思います。

 

系図作成

戸籍を手に入れたら、まずは系図を作成します。

これはエクセルで作るのがおすすめです。足すのも移動させるのも楽です。

私の場合、家系が入り乱れすぎているので、家系ごとに色をつけてわかりやすくしています。

名前だけでなく、誕生日、没日(わかりやすく西暦も)、年齢、続柄、出身地(村や字名)も入れています。

昔の人の場合、名前が読めなかったりするので、わかるものはふりがなもいれています。同様に、親、兄弟、妻などを追記していきます。

わかるものは妻の家族なども入れておくと、又何か見えてくるかも知れません。

 

 

あとは、日記やお墓などからわかる人間関係も別で系図を作っていきます。

また後で記載していきたいと思いますが、私の曾祖母はその村に住んでいた人たちの家族構成まで残していましたので、それらも系図におとすことでより関係図が明確になるかと思いました。

もちろん膨大になるので、エクセルのシートで分けていきます。

私の場合は、膨大になりすぎて何かよくわからなくなってきたので、家系ごとに分けて、略系図(兄弟たちを省いたもの)も作成しました。

 

郷土史などに出てきた人物で、同じ苗字の人のも系図に落としました。

そこからどこかで、ふいとつながらないかなと思っています。

 

②位牌・墓情報をまとめる

位牌やお墓の情報は、ワードで書いています。

戒名は系図で見てもあまり意味がないので、ここに書いています。

そこで疑問に思ったことを赤字で書いています。

 

ちなみに戒名 ●●△△◆◆ の●●は道号で、その人の仕事や性格、願などでつけられたもの。△△は戒名で、名前から一文字取ったりします。◆◆は昔は階級で、性別や年齢などになります。男性には大居士、居士、清信士、信士女性には清大姉、大姉、清信女、信女、子供には嬰子(1歳まで)、孩子、孩女(2~4歳まで)童子童女(15歳くらいまで)などつけられます。居士や大姉は、特に寺院に貢献した位号で、江戸時代は貴族や武家の家柄にのみ許されており、一般にはつけられない位号だったそうです。

 

(墓調査による考察)

戒能助次郎の次男吉次郎の養子先(久米郡鷹ノ子村)の関係のお墓は2つあります。

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(義父利右衛門)戒名 大円道覚居士 文化12(1815)8・26没

(義母ユ名)戒名:利釖妙覚信女 天明6(1786)・5・17没/過去帳:文化12(1815)8・16没

 

①名前からの検証

右衛門、左衛門というのは、もともとは役職の「右衛門府」「左衛門府」から来た名前である。江戸時代以前は諱を避ける習慣があった。本名を口にすると霊的人格を支配できると考えられていたため、通称名が使われるようになった。助も次官(すけ)からきている。明治5年に通称と諱の併用は廃止された。

室町時代以降は下級武士でも名乗れて、江戸時代には役職についてなくても、官職への憧れから農民でも名乗るようになる。そのため、名前からは武士だとかは言えない。

 

②お墓の形状と戒名からの検証

お墓には武士がかぶっていた陣笠をかぶっており、江戸時代で戒名に「居士」がついていることからも武家であったことがうかがえる。これは、「祖先は武士であった」「蜂須賀氏の家臣にいた」と聞いていること、本家には刀が伝わっていたことからも裏付けられると考える。ユ名の戒名の「釖」は刀の意味があるのでユ名も武家生まれだったかもしれない。

 

③没日の検証

・ユ名は利右衛門より早く亡くなっている

・墓は利右衛門の名前がメインで、ユ名はサイドに名がある。

つまり、墓は利右衛門が亡くなった時に建てられており、その時に改めて一緒に祀ったときにお寺の方が、この時に亡くなったと思って過去帳に書き留めたのではないか。または命日を近い日にして、お参りしやすいようにしたのかもしれない。もしくは、もともとは違うところにあり移転したときに過去帳に書き留めたということも考えられる。

またユ名の没日は、墓と過去帳で29年も差があるが、他にも、戸籍や過去帳と墓の没年月日が違う人は多々いる。昔のことなので、届出の書き間違い、記載間違い、焼失や災害により作りなおした、あとからお墓を建てた、など、数年違うことはあるかと思われる。

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(作左衛門)戒名 智月明有居士 安政6(1859)・正月・26没

(ふみ)戒名 理月妙鏡大姉 嘉永2(1849)・10・4没

 

 

この養子先は断絶寸前だったので、吉次郎が利右衛門の養子になり、景浦家の次女と結婚して跡を継ぎました。でも、作左衛門は、利右衛門より44年あとに亡くなっているんですよね。

 

〈謎①〉作左衛門は、利右衛門の弟か子供だと思うが、この人が後を継がずに、なぜ養子をもらって跡を継がせたのか??

 

推察① 作左衛門は、利右衛門の妾の子または母違いの弟で、妾または母の地位が低かったのではないか。

推察② ユ名とふみの戒名には、同じ「妙」の字が入っているが、これは女性によく使われる字である。

推察③ ふみは「大姉」で、ユ名が「信女」ということはふみの方が格上。

 

〈謎②〉吉次郎が生まれたとき、すでに利右衛門は30年前に亡くなっている。それなのに吉次郎は利右衛門の養子となっている。(戸籍より)

 

推察① 景浦家が財産を受け継いだと聞いているので、財産を継ぐ人がいなかったので一時的に預かっていたと思われる。

推察② 名前を継ぐために養子にしたと思われるが、そもそも亡くなってからでも養子にできるのだろうか?? もしくは、いったん助次郎が養子になっていて、何らかの事情で書き直したのかもしれない。

推察③ 名前や財産を継いでいることから、かなり親しいと思われるが、今のところ3家(養子先、戒能、景浦)の関係はまったくわからない。(養子先も珍しい苗字でこのあたりにもない。)

 

とまぁ、こんないろいろなことが考えられるわけですね。

 

③ 出生地の郷土史、歴史本などを調べる

 

市町村の合併で村名などが変わっていたりします。まずはそれを整理して、その土地のことが書かれている郷土史を調べるのが、近道です。

その地域にもよると思いますが、昔の風習や出来事、社寺のことなどが書かれており、そこから人物関係がわかることもあります。

歴史は、その時代に書かかれた一次資料や、後に書かれた二次資料、三次資料があり、後に書かれたものほど戦で勝利したものが都合よく書き直したりしており信憑性は低くなります。

 これらは、図書館のデーターベースで見れるところもあります。

 

私が参考にしたのは下記になります。

とうおんデジタル資料館

 愛媛県立図書館(伊予史談会文庫)

祖父の自伝

曽祖父の日記

曾祖父母の手紙など

 

なお、昔の資料はへんたい仮名で書かれており読めないときもあります。

そこで参考にしたのがこちらです。

【みんなの知識 ちょっと便利帳】変体仮名(へんたいがな)一覧 = 古文書解読の一助に

 

あと、文章に使用されている漢字で、「言う」「云う」があったりしますが、使い分けているわけではありません。

人の名前ですら漢字がその時によって違うことがあります。新選組沖田総司でさえ、自分の名前を、沖田総二などと書いています。山南敬助も三南と書いたり、坂本龍馬も良馬と書いたりしています。これは漢字の音だけあっていればよく、書きやすい字を書いていたと思われます。なので、この辺りも間違ってると思わず、気にしないようにしましょう。

 

資料で気になったものはとりあえずワードに落としていますが、膨大になってしまったので、少しずつ整理しながらまとめなおそうと思っています。

 

自分のルーツを辿る16 愛媛旅行⑭ 松山市 松山城Ⅱ 東雲神社、愛媛県立図書館

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祭神:天照皇大神豊受大神天穂日命菅原道真公、息長福玉命など

「文政6年(1823)、松平松山藩11代藩主定通が、松山城山揚木戸に仮営を営み、藩祖である久松定勝の神霊を招請し、息長福玉命と称えて祀ったのがはじまりである。

その後天保11年(1840)、12代藩主定毅(勝善)の代に松山城山長者ケ丘に社殿を造営し、東雲大明神と呼び、一家の祖先神で、天穂日命は菅原氏の祖神といわれている。

明治13年(1880)には、東雲神社と改称し、縣社に列した。昭和20年(1945)年7月の松山空襲で社殿など数多くの建物が焼失した。昭和46年(1971)伊勢神宮の分社松山大神宮を奉遷し、昭和47年(1973)に神明造の社殿が完成、松山大神宮と東雲神社の神霊が合祀奉斎された。」

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ん・・?

天皇とゆかりないのに16菊紋??

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北側に出てきましたが、これにはわけがありました。

 

祖父の自伝より

〈叔父(高須賀源吾)の家は、築30年、1919年頃に住み始める。杉谷町(現緑町1丁目)は城山の東北隅、東雲神社下の道を山に沿って左へ曲がって行ったあたりで、家は曲がった突き当りから五軒目くらいの左側にあった。家の前には3m幅の道を隔てて理髪店があった。〉

 

源吾は、祖父から見て母の弟になります。私にとっては父方&母方共通の曾祖母の弟になります。源吾は則惣田谷の本家を継ぎますが、1914年、松山の第三十二連隊に入隊し、2年目に朝鮮の龍山ヘ。その後帰ってきてこの町に住みました。そして、祖父はここに居候したことがありました。

ということで、どんな町で暮らしていたのか歩いてみたわけです。

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おそらくこのあたり?

でもこれだと5軒目と書かずに角にならないのかな?

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まーっすぐ行きます。

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突き当りを曲がります。

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多分・・このへん?

左には城の塀があるので、こじんまりしたところだったようですね。

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3mもない気はするけれど・・。

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加藤嘉昭公

東雲神社の階段のところから南にいく途中にありました。

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そして今度は、愛媛県立図書館へ向かいます。

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このあたりは三之丸あたりになります。

 

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午後はたっぷり、資料調査をしました。

 

伊予史談会から目録を取り寄せ(購入)て、

その中から気になる資料をチェックして事前に申請しました。

図書館で、その資料を見せていただきました。

もちろん古文書なので、その場ですぐ解読は難しく、写真撮影の許可も得て行きました。

読むのはあとにして、一通り写真に納めさせていただき、

それをあとから解読していっています。(まだ終わってない・・)

 

とりあえず、いったんこれで愛媛旅行も終わりです。

祖父の自伝を元に、かなり調べてから行ったので、意味のある現地調査となりました。

その後・・本家から借りてきた曽祖父の日記と、この資料の解読でかなり時間がかかっています。

日記・過去帳・墓でそれぞれ亡くなった年月日が全然違ったり・・??

数か月ならまだしも、30年くらい違っていたりもするんです。謎・・。

もう少し整理できたら、今度は井内村、則之内村(惣田谷)と再度鷹ノ子へ行きたいですね。このあたりが一番先祖につながる鍵だと実感しました。

 

ということで、まだしばらく続きます。

次からは、今わかっていることを書いていきたいと思います。

 

 

自分のルーツを辿る15 愛媛旅行⑭ 松山市 松山城Ⅰ

松山城へ行く前に・・商店街を歩いていたら

・・戦車!?

 

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こんなの身近で見ることがないのでガン見ですw

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坊ちゃん 中にSLが見えて気になる・・。

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松山城へはロープウェイであがります。リフトは苦手・・。

ここは特に先祖とは関係なくてちょっと観光です^^;

 

松山城は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで活躍した加藤嘉昭(よしあき)によって、

慶長7年より築城を始められました。寛永4年(1627)に嘉昭が会津へ転封された後、替って入った蒲生忠知によって完成されたと伝えられています。寛永12年(1635)に松平定行が松山藩に入り、以後明治維新を迎えるまで松山城松平家の居城となりました。

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正岡子規の句碑

 

 

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登り石垣

全国で最大規模!高さ10mを超えるそうです。

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中ノ門 (先は行き止まり)

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戸無門

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ここからもよい眺めです。

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隠門

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太鼓門

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井戸

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馬具櫓

 

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加藤嘉昭のキャラクターですね。

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天守閣が見えてきましたw

叔母をここで置き去りにして、私は天守閣を目指します。

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一ノ門

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二ノ門

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三ノ門

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筋鉄門(すじがねもん)

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天守

 

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北隅櫓

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多聞櫓、南隅櫓

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内門 右側に天守入口

 

 

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太刀 銘 龍泉高橋貞次

新しいけど美しい・・

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3代藩主松平定長着用の鎧と伝わる

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4代藩主松平定直着用の鎧

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藩札

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松山藩主松平(久松)家に伝わっていた葵紋梨地茶器。

三つ葉葵紋は11代定通以降に使用が許されているそうな。

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葵紋付鬼瓦

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葵紋入塗金薬罐(やかん)

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長持

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侍の似顔絵

二の重南の下見板張りの裏に描かれたもの。おちゃめw

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上からは丸見えですね~。

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天神櫓

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松平(久松)家の先祖である菅原道真の像を安置しています。

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せっかくなので伊予みかんソフトをいただきました♫

 

自分のルーツを辿る14 愛媛旅行⑬ 松山市 祇園町

続いて祇園町へ。

千舟町より南、いよ立花駅近くにあります。

名前からてっきり道後の近くか松山城の近くだと思い込んでいました。

こちらに八木家の本家(井内村から引っ越した後)があります。

祖父の弟の子供が継いでいて、

さすがに私からは遠いので、叔母の協力を得ました。

 

祇園町は、昭和5年の町名改正まで素鵞村(そがむら)の一部でした。

素鵞村のうち、現在の中村と立花の一部が祇園町という町名に変わりました。

今回は時間がないので行っていませんが、

近くに素鵞神社があり、素戔嗚尊を祀っています。

この素鵞神社は、祇園神社と呼ばれていたことから、祇園町となったそうです。

京都の八坂神社と何やら関係がありそうですね。

 

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曽祖父が書き残したものがたくさんありました。

京都に観光に行った時のガイドブックなんかもあって、おもしろそうでした。

 

これらの中から先祖に関係のありそうなものだけをお借りしました。

曽祖父が自分の日記をさらにまとめなおしたものです。

すべてデータに打ち込みましたが、めーっちゃ大変でした。

書かれている通りに入力したかったので変換が難しい。

一年がかりとなりました^^;

 

他のも読みたいけど・・さすがにこれ以上お願いできず。

もともとあまり来てほしくないといわれていたのを、

叔母がなんとかしてくれたのもあって。

本家は先祖にはまったく興味もないんですよね・・。

ああ、貴重な資料がもったいない。

 

あと位牌も見せていただきました。

今のお墓の場所は聞いただけで、あとは写真をもらいました。

 

********************

<資料からの検証>

 

祖父の自伝によると、

〈家の仏壇にある位牌は、父から七代前の先祖まで遡ることができ、墓地にある墓碑の数もその程度であった。多分父より七代前に分家して家が出来たのであろう〉

これをまとめると、

□-□-□-□-□-林助(1826年生)-常蔵(1854生)-隣吉(1886生)-毅(1910生)

となるのだが、毅が14歳(井内村在住)のときまで常蔵は生きていたので、それまで位牌は林助までしかなかった。よって林助の代から7代だと思われる。

つまり、

 

□-□-□-□-林助(1826年生)-常蔵(1854生)-隣吉(1886生)-毅(1910生)

 

そして『戒能氏沿革史』(伊予史談会)には、こんな記載がある。

〈某年甲家の惣左衛門通常、松山藩より井内村庄屋命せらる、延宝五年(1677)藩より**の功より八木をたまわる(戒譜)〉

 

もしこの通常が八木家の初代だとすると、

通常-通定-□-□-□-□-林助(1826年生)-常蔵(1854生)-隣吉(1886生)-毅(1910生)

25歳で子供がいると仮定すると、通定から林助まで、

25歳×6人=150年、1677+150=1827年で、林助と同時代となる。

 

ちなみに、八木家には刀剣(大刀と小刀と短刀)や銅鏡4つが伝わっていたそうです。

大刀は「長船祐定」の銘、小刀は「相州正弘」の銘、短刀は無銘。

銅鏡には、青銅製で○の形をしており、円形部が直径二十センチほどのが一つと、直径十センチほどのが三個で、どれにも裏面に梅の花などの彫刻があり、大きい方には「天正藤原作」(一五七三~一五九一年)と銘。

大熊山にある大熊神社にも藤原光長作の銅の手鏡があり、関係があるかも・・と祖父は残しています。この刀剣は、廃刀令で出さなくてもいいのに提出してしまったとかで今はありません。

 

これらから、通常が先祖だったら・・とわくわくしますが、井内村から引っ越すときにお墓も整理しており、もう昔のものが残っていないのが残念です。

刀剣好きとしては、これらの刀剣にお目にかかりたいんだけど、銘だけじゃ無理でしょうね。

自分のルーツを辿る13 愛媛旅行⑫ 松山市 義安寺

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続いて、義安寺へ向かいます。

途中にへんろ石がありました。

文政四巳年六月吉日とあります。

1821年ですね、このくらい古いと萌えますw

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おろくぶさま

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御本尊:釈迦如来

「河野景通の子彦四朗義安が建立した寺なので義安寺と名付けられたという。

『予陽郡俚郷諺集』に、天正13(1585)年、河野家断絶の時、同一族の者、譜代の老臣達も加わって、ここ戒能の谷義安寺に集まり、二君に仕えないことを神水を呑み誓約して自刃したといわれている。この時に別れの水盃をかわしたという「誓いの泉」が今も残っている。また自害した侍たちの精霊が蛍になったという伝説があり、このあたりの蛍は義安寺蛍、源氏蛍と呼ばれる大型のもので、川筋から山手にかけて蛍の乱舞する名所であった。現在はお六部さんとして八のつく日には県外から祈願に訪れる人も多い。」

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こちらにも河野家の家紋がありました。

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結構きれいにされていますね。

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こちらにも家紋。

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誓いの泉

もっと大きいものをイメージしていたので、あれれ??

 

東温デジタル資料館河野氏滅亡と周辺の武将たち』P130~にこんな記載があります。 

〈河野家断絶後、河野氏一族や重臣たちは河野家再興をしようとしたが、秀吉が許さず、秀吉暗殺計画を企てるも露見して全員討ち死にした。

この秀吉暗殺計画の共同謀議に参加した者は、平岡遠江守通倚、河野壱岐守通資、得能備後守通慶、和田左衛門尉通末、戒能藤兵衛通次、大西弾正通秀、大野山城守直昌、土居兵庫頭通達、井門宗左衛門義安、大内伊賀守信恭、垣生加賀守盛周、戒能備前守通盛、日吉左馬、白石若狭、野田将監、白石三郎大夫、別府修理大夫、日吉六郎左衛門、和田山城守、渡部丹後守、堀池右馬、志津川修理など。〉

この参考文献はよくわからず、『戒能家略譜』では、通盛は出家して生涯を過ごし、通次も不慮の死とあり、どちらが真実かはわからない。もしかしたらこちらが本当で、暗殺に計画したということを隠すために書き換えたかもしれません。

 

どちらにせよ、亡くなった方々のご冥福をお祈りしました。

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正岡子規松尾芭蕉の句碑

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別の入口

 

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道後温泉駅の方へ向かう途中に、正岡子規像がありました。

 

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そして道後温泉の時に見つけられなかった鷺石も発見!