京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

聖母女学院(旧陸軍第十六師団司令部庁舎)、師団橋

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帰りに聖母女学院前を通ってきました。

ここはもともと陸軍第16師団司令部の庁舎として建てられたものになります。
警備員さんが厳しく見ていてこれ以上撮るのは控えました。

焦ったので、ちょっとゆがんでる・・w

明治41年(1908)に建てられたもので、国の有形文化財となっています。

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そしてその横には師団街道があり、師団橋が疏水に懸けられています。

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この橋桁には、陸軍のシンボルマークの五芒星があります。

前から見たくてようやく見に行きました。

 

藤森神社から聖母女学院へ行く通り道に「軍人湯」もありました。

奥まったところにあって看板も車に隠れていたので、撮りづらくて・・。

 

藤森祭(深草祭)② 駈馬神事 in藤森神社

 

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神輿最後まで見ずに、藤森神社へ移動して、12時に到着!

二列目で場所取りできました。

おすすめは東側(本殿向かって右)です。
駆馬神事は13時からと15時からの2回行われます。

 

駆馬神事の由来

781年、早良親王陸奥の反乱がおこったときに、藤森神社で戦勝祈願して出陣した時の擬勢を象ったもので、京都市の民族無形文化財に指定されています。

馬で疾走しながら、数種の馬術の技を競うもので、江戸時代中期に大陸系の曲芸的な馬術の影響を受けたといわれています。(朝鮮通信使の騎乗術に似たところがあるそうです)

 

明治時代より氏子に引き継がれ、昭和初期までは街道でしていましたが、道路・交通事情により境内参道馬場でするようになりました。

 

 

公式ページより、駈馬の技は7種。

1、手綱潜り    敵矢の降りしきる中、駈ける技

2、逆乗り(地藏) 敵の動静を見ながら、駈ける技

3、矢払い     敵矢を打払いながら、駈ける技

4、横乗り     敵に姿を隠して、駈ける技

5、逆立ち(杉立ち) 敵を嘲りながら、駈ける技

6、藤下がり    敵矢の当たったと見せて、駈ける技

7、一字書き    前線より後方へ情報を送りながら、駈ける技

 

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神職、巫女、馬たちがまずこの道を往復します。

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馬は全部で3頭ですが、2頭ずつ南に向かって、走るのは本殿へ向かう片道のみ。

『素駈け』といって、何度か技をせずに走らせることで、この場に馬を慣れさせるのですって。

確かに最初は興奮気味でまっすぐ歩けなかった馬さんもいましたが、

何度か通るうちに落ち着いていくように見えました。

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刀を口にくわえて走っています。

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こちらは花傘を持って走っています。

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手綱潜り

決して落ちそうになっているわけではありません。

 

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藤下がり。

これが一番大迫力でしたね。

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一字書き。

どうやら「令和」と書かれたようです。

放送で「見えなくはない」というようなことを言っていたので、どういう字だったか気になります。

 

他、逆立ち、横乗りがありました。

ちょうど自分の居る少し手前から技を仕掛けるので、

もう少し北にいた方が、技は見やすかったなーと思いました。

そうなると、もっと早くいかないとダメでしょうね。

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最後に御本殿へお参り・・えらい人でした。

藤森神社の御朱印帳、

前に来た時もかっこいいなーと思っていたのでいただいてきました♫

 

 

 

藤森祭(深草祭)① 神幸祭 in伏見稲荷

藤森祭は、菖蒲の節句発祥の祭りとしても知られ、家に飾られる武者人形に藤森の神が宿るとされています。

平安時代(863年)、清和天皇の勅命による「深草貞観の祭」を起源とし、武者行列や駈馬神事が行われます。

(あとで菖蒲見ようと思っていたのに、人込みで忘れてしまった・・)

 

藤森神社についてはこちら。

kyotomichi.hatenablog.com

 

藤森祭のスケジュール

4月29日 神輿出し

5月3日 御魂遷し、藤森太鼓奉納、神輿担ぎ

5月4日 宵宮祭

5月5日 神幸祭

還幸祭はないんですね。

 

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ということで、9時半頃に伏見稲荷へ到着。

 なぜ藤森祭なのに、伏見稲荷?と思われるかもしれません。

 

もともと伏見稲荷の場所は藤森神社の土地だったこともあって、
昭和7年までは「土地返せ」と言いながら境内に入っていたそうです。

そして稲荷側は、「神様お留守」と返したとか。

このやり取り見たかったですね。

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10時過ぎ、まずは鼓笛隊がやってきます。
 

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藤森神社 神役

 

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そして武者行列が続きます。

朝渡(あさわたり)

早良親王陸奥国で反乱がおこったときに藤森神社で戦勝祈願して出陣した際の軍装。

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皇馬(こんま)

 清和天皇勅諚深草祭の行装

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佛殿(ほって)

神功皇后が纛旗(とうき)を掲げて新羅凱旋したときの行列

(どうせならここに神功皇后を入れてほしい・・)

 

うーん、違いが分かりづらいですね。
本来七福神もあるようですが、いなかったです。

 

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滝尾神社の剣鉾


滝尾神社は東福寺の近くにある神社です。

藤森神社の境外末社で、江戸時代には「多郷社」と称し、藤森神社の御旅所となっていました。

祇園祭の大船鉾の龍頭のモチーフになったところですね。

剣鉾なので、神輿が通る前に厄を集めるという祇園祭の鉾と同じ役割でしょう。

 

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続いて神役の車には菖蒲の花が載っていました。

(鼓笛隊のバスとともにいったん南側の駐車場で待機していた)

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そして10時45分。

先ほどの鼓笛隊、武者行列が出てきました。

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この時に剣鉾が鉾差をしてびっくり。

もうないのかと思いました・・。

かろうじて見れましたが、移動できないので待機。

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入れ替わるように、今度は神職が馬に乗ってやってきました。

 

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女神輿

 

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藤森太鼓

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深草

深草郷、本郷、上八丁、中ノ郷、下之郷

 

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東福寺

東福寺郷、東福寺上ノ郷、南組、北組)

 

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宮本下之郷

 

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そして3基の神輿が、稲荷大社末社「藤尾社」に鎮座されました。

祭神は舎人親王です。

この場所はもともと藤尾と呼ばれる地で、「藤尾社」がありました。

816年に空海がこの土地を請い稲荷社を造営したために、藤尾社は深草遷座して祀られたのです。(追いやられたともいう・・)これが今の藤森神社の東座(下記)にあたります。

今の「藤尾社」は、延宝8年(1680)に天皇塚の崩れた跡に小舎を新築されたものです。

 

 

神輿は左(西)から深草郷、東福寺上ノ郷、宮本下ノ郷となっています。

これはおそらく藤森神社の祭神の並びと同じになっているのでしょう。

つまり、

西座:早良親王(さわらしんのう)、伊豫親王(いよしんのう)、井上内親王(いのうえないしんのう)

中座:素盞鳴命(すさのおのみこと)、別雷命(わけいかずちのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇(おうじんてんのう)、仁徳天皇(にんとくてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、武内宿禰(たけのうちのすくね) 

東座:舎人親王(とねりしんのう)、天武天皇(てんむてんのう)



天武天皇の子が舎人親王です。

そして早良親王は、舎人親王の従弟の孫にあたります。(遠い・・)

 

ってことで、藤森祭は、3つの祭りが一緒になっているんでしょうね。 

合祀しまくっているので、とってもややこしいというか複雑・・。

①「土地返せー」っていう東座の祭

早良親王藤原種継暗殺を企てたと疑われて幽閉され、絶食して亡くなった。怨霊のたたりを恐れ、その怒りを鎮めるための東方征伐を称える西座の祭

主祭神である素戔嗚尊の霊を鎮める中座の祭(&神功皇后を称える祭)

 

素戔嗚尊についてはこちらをどうぞ。

kyotomichi.hatenablog.com

 

 

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さて、11時過ぎより神事が行われます。

この間は撮影禁止です。

東側(右)が藤森神社、西側(左)は行列にいず鳥居前で待っていたので稲荷大社神職でしょう。

これを見ると、稲荷大社より藤森神社の方が格が上のような感じがしました。

お祓いのあと祝詞が上げられたあと、お互いに挨拶されていました。

5月3日の稲荷大社還幸祭では、東寺の東門前で東寺の僧侶から読経を受けるので、この神仏の関係性が面白くて興味深いですね。
お互いにあいさつ回りをしているみたいです。

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 15分ほどで神事は終わり、神輿も早々に立ち去るんですね~。f:id:kyotomichi:20190505221309j:plainf:id:kyotomichi:20190505221046j:plain

帰りは剣鉾を差しているところを目の前で見たいと思いましたが、
神輿の周囲にいないから、剣鉾どこー?と探し回りました。

宮本下ノ郷、東福寺郷の神輿が出てから、剣鉾が来ました。

 

なぜ神輿の先導ではないのだろうと思ったら、

滝尾神社が東福寺郷に位置することから、

2003年から東福寺郷の神幸列を先導するようになったからだそうな。

でも・・先導してないよね^^;

 

いろいろ思うところはありつつ、②へ続く。

 

黒い"気"の記録 2019

 

 

最近見ていないなーと思って記録を辿ると…本当にちょうど一年前で、同じことを書いてることに、ゾッとした…。

盛り塩、効果は一年なのは間違いない。

また入れ替えておかなければ。

 

ということで、一応今年もつけてみることにします。

 

2019.2.28

今日は久々にきつかった。

感じるのは暴風。

夢も覚えていたので書いておく。

自転車を置いて歩いていた。最初は百貨店の地下食品売り場。閉店前で安くなっている。

肉屋の前を通り、ケーキ屋もあったか…。

そして場所は飛んで、和菓子屋さんの前。自転車を取りに行ってから夜ご飯代わりに買いに来ようと思っていたのに、店のおばあさんが今度展示会?かなんかするから、そのための練習?かで、無料でいいから食べていきなさいと店内へ。(これはたまたま北野天満宮の粟餅のことを考えていたからでしょう) 似たようなお餅が出てきて、どちらにしても食べるつもりだったから良いかと食べて、お金は払いますからというと、そう?といって受け取りました。店を出るともう閉店で閉めてた。

で、また場所飛んで、どこかの部屋に寝ていると、左から(多分北)誰かが入ってくる気配がある。強い暴風の黒い影。私はうつ伏せになっていて、なんとか逃げようとするも動かない。声を出そうにも全くでない。夢の中では恐怖心を感じていた。それでまたこれかと思って、南無阿弥陀仏を心で唱えるも全く効果なく、これではダメだと何か違うものを唱えてたけど、これは忘れた。とにかく動けないところにまとわりついてくる黒い風を、拒否するし続けて、15-20秒くらいしてようやく風が収まった。

その間にもう一つ夢?が重なった。どこかの◯島(忘れた)の名前と地図が出てきて、遠くで男性2人がこの◯島と◎島はとなりじゃなかったか?とか、20代の女性が林の中?で首吊り自殺をしてその映像、どうもその男性2人、同じく20代くらいが関係していて、捕まったのか、パトカーと警察が駆けつけてくる。

黒い気の正体はどうやらその女性のようでした。過去見た夢の中で、初めての展開!

なんなんだろう…。

夢が交差するのも初めてかもしれない。

起きたら1時42分。

とにかく全身動かなかったから疲れました…。

 

 

2019.3.3

夢ではないけれど記録。

この日、法住寺、養源院へいきました。

この養源院の空気…凄いヤバい。

特にどの部屋からも、東北から冷たい空気があり、私の左膝、顔左半分だけ冷凍庫に突っ込んでいるような感じがありました。

そして、座ってるだけで頭がぐらんぐらんと目眩というか、頭が揺れてた…。


この後、3日間頭痛に悩まされる。

普段頭痛もちでないだけに、これには参った。

薬飲んでもほとんど効かなくて、3日目、別の薬に変えて、3時間ほど寝て、ようやく楽になった。



2019.3.27

夢の中で展示を見ていた。会場は町屋の一軒家のようなところで、見忘れたところがあったので、ぐるっと回ろうとして襖を開けたらスタッフの休憩していた畳の部屋で、そこを抜けて、台所を抜けて入り口へ。

見忘れたところは奇妙というか気味悪くもあった。草木が周りにあって、そこにハロウィンのような感じで、テーブルにはよく見たら人ではない頭巾を被った生き物がいたりした。スタッフが近づいてきたので、中庭みたいなところにテーブルと椅子があって、そこに荷物を置き写真を撮ろうとする。その後ろに何か木のようなものが回転していて、頭すれすれを通るなど不気味だった。とにかく周りにも変わった生き物がいたが覚えていない。


そのままなぜかそこは自分の部屋になった。現実とは違う。庭みたいに下は土で周りに草木、そこに棚があった。何か黒い気がまとわりついて動けなくなった。その棚から塩を取り出そうとするが、場所を変えたので見つからない。現実でも塩の場所を変えたばかり。一番下の引き出しを外し、中のものを出す。小さな木がそこにもあって、葉に幼虫がいたので、ティッシュが見つからなかったから別の木から葉をちぎりそれで潰してゴミ箱へ。2番目、1番目の引き出しも見るが見つからない。なぜー?と焦る。身動きは取れず、その力強さを振り切りながら探す。伸ばした右手の周りになにやら空気がまとわりついているのがわかった。

その横で父が勝手に引き出しを開けてこれはいらんやろうとクリスマスの飾りをすてようとするんで、これは私がディスプレイで使ってるもの!勝手に捨てないで!と怒鳴っていた。


そこでようやく目が覚めて、動けるようになり、改めて塩を引き出しから手探りで探すも見つからないので、明かりをつけてようやく見つけました。取り出して、体に振りかけました。時計は3時20分前くらい。寝たのが2時だったから、ずれたかな。

場所を変えると、夢でも焦るのね…💦

(盛り塩の場所ではなく、予備塩の場所)

いやー、いつにも増して金縛りの時間が長くて疲れました。



2019.04.04


おかしいな、今年は多いな。

なんだか続いてる。

何人かで旅行に来ていて(多分海近くのイメージ)、旅館に帰ってきて、「じゃまた明日ね、おやすみー!」と、みんなと別れて私も部屋に帰って(一人部屋)うつ伏せ(普段うつ伏せで寝ることはほぼない)に寝てると、夢の中で(夢の中で夢を見ている…なんとも変な感じ)、自分の体をすごい風が下から上へ抜けていき、それからまた戻ってきて、渦巻きを描くような感じで何度もくるんで、それから逃げようとするも動かず、「南無阿弥陀仏」と唱えようもしても「なん…」と声が出なくて詰まって言えない。そこで今度は「臨兵闘者皆陣列在前」と声にしようとしたけど、やはり声も出ないので、3回ほど心で唱えると、風の力が弱まったから、これはいけると思い、あと5回ほど唱えたら、体が動いた。

そこで目が覚めて、起きたら1時過ぎでした。

今日のは嫌な感じではなくて、右足だけ持ち上げられたり、遊ばれてるなーと夢の中でも思ってた。

夢の中で冷静に考えて行動しているのが、どうも不思議で仕方ない。




 

大阪 源氏ゆかりの地巡り② 源氏三代の墓(頼義、義家、頼信)、源氏館跡

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壺井八幡宮から歩くこと10分ほど。

この辺りも人家が結構ありました。

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こんなところ通るのー??と思いながらも、

ナビに従って歩きます。

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抜けると広い道に出てびっくり。

しかもきれいに整備もされています。

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通法寺

河内源氏菩提寺でありましたが、今は廃寺となっています。

 

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広々とした荒野に、ほんとうにぽつんとこれだけしかありません。

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源頼義(988-1075)のお墓です。

 

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源頼義は、父頼信、母修理命婦の長男として生まれた。平忠常の乱の際、父を助け乱の鎮圧に貢献し、早くからその武勇を東国武士に知らしめていた。

永承6年(1051)、「浮囚の長」である安倍頼良(のちの頼時)が反乱を起こした際、乱の鎮圧に当たった。いったんは頼時を従わせたが、そのあと頼時とその子貞任がふたたび謀反をおこしたため、出羽豪族清原の援を得て、康平5年(1062)ようやく乱を平定した。(前九年の役)。また頼義は前九年の役の出陣に際して、石清水八幡宮に参拝して戦勝を祈願し、その戦功をあげることができたので、その感謝の意味を込めて、この地に八幡神を勧請し、通法寺の北側に壺井八幡宮を建立、源氏の氏神とした。承保2年(1075)7月13日、88歳でその生涯を閉じ、通法寺境内に葬られたといわれている。」

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家紋は、笹竜胆紋(ささりんどう)

源氏各流によってこんなに家紋があるのですね。

下記、とても参考になります。

清和源氏各流の家紋

 

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通法寺の右側に抜けると、源氏館跡があります。

「(略)頼信らが住んだ館の跡は、壺井八幡宮が鎮座する丘の上にあると伝えられている。今のところ場所や規模などを知る具体的な手掛かりはないが、武家の棟梁にふさわしい豪壮な屋敷が造られ、たくさんの武士たちが集まっていたことだろう」

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明治40年に建てられたもののようです。

源館・・通法寺・・と多少読めます^^;

徳川綱吉ともありますね。

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館があったのは場所的にはこの丘あたりでしょうか。

通法寺北側を見たところです。

 

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さて、続いて向かいます。

ここから少し心細くなりますね・・。

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少し歩くと、あったあったこれだ!

源氏三大の墓、とあります。

いや待て待て、写真ではこれではないはず・・。

地図で見るとさらに奥に行かないといけません。

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いのしし!

出没注意って、どう注意したらいいの??

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ひぇぇぇ・・めっちゃ心細いってー!

 私の御先祖様は源氏だから、大丈夫と言い聞かせながら登りました(笑)

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少し上がると広い場所に出てびっくり。

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右側に小高い丘になっていて、その麓に素敵な石碑がありました。

大正五年?三年? 

とってもかわいらしい文字w

源頼信 義家公御廟修繕」とあります。

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ぐるっと回ると、正面が見えました。

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義家のお墓です。真南を向いていました。

そういえば、頼義も真南を向いていましたね。

何があるんだろう?

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源義家は父頼義、母平直方の女の長男として生まれた。7歳の時、石清水八幡宮元服八幡太郎と名乗った。前九年の役の際、頼義に従い反乱を鎮圧し、武将の名声を高めた。

永保3年(1083)には出羽豪族清原の内紛が起こるが、寛治元年(1087)その鎮圧に成功し、武将としての地位は不動のものになった。(後三年の役

この鉱石から、百姓が土地を寄進しはじめ、寛治6年(1092)には、朝廷から土地の寄進を禁止されるまでになった。また永徳2年(1098)武将で初めて院への昇段(殿上人)を許された。

晩年康和3年(1101)7月、次男対馬守義親が反乱、また三男の義国が嘉承元年(1106)6月に事件を起こすなど義家の中央官界での地位が危ないものになっていった。最後は嘉承元年(1106)7月、今日の邸宅で死去し、この地に葬られた。」

 

頼義・義家はこれまでもゆかりの地を巡っているので、なんか感慨深いものがあります。下記も合わせてどうぞ、

 

kyotomichi.hatenablog.com

 

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 さて、まだこの道をまっすぐ行きます。

いわゆる山道よりましかな・・。

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 源頼信のお墓です。

こちらは真東を向いていました。

 

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源頼信は、清和源氏の家系である満仲の三男として生まれた。20歳のとき中央官界に身を置き、藤原道兼道長に仕えた。特に長元元年(1028)に勃発した平忠常の乱の際には、追討使平直方にかわり反乱を鎮圧した。この欄を鎮圧したことによって、頼信は武家の棟梁としての確固たる地位を築いた。

また、上野・常陸・石見・伊勢・美濃などの国司を歴任しており、最後に河内国司となる。その時河内国古市郡壺井里(現壺井・通法寺)に本拠地を構え、河内源氏をひらくもとになった。

長久4年(1043)には、頼義とともに観音堂(のちの通法寺)を建立したと伝えられ、代々河内源氏の氏寺として信仰された。永承3年(1048)、81歳の時にこの地で死去し、遺言により通法寺の巽(東南の丘陵上に葬られた」

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おまけ

頼信のお墓の左側に、「大僧正隆光墓」というのがあります。

将軍徳川綱吉の学僧で、江戸護持院の住職を務め、いわゆる「生類憐みの令」を公布させた人になります。のちに通法寺の住職に左遷させられたようですね。

さてさて、上ノ太子駅にもどり、13時20分に橿原神宮駅に着。

今度はずっと行ってみたかった三輪神社へ向かいます。

すでに予定の時間1時間超え(笑)

散策に1時間見てたけど、思ったよりかかりましたね。

さすがにお腹空きすぎて、乗り換えまで20分間あったので、ここで食べるしかないとドトールでさっと昼ごはん。

 

すでに本日の歩数9800歩!!

美輪まで持つかしらん…。