羅城門の1/10の復元模型。
昨日設置されたので、早速見に行ってきました!
でもなぜ京都駅・・どうせなら羅城門のところに設置してほしいなぁ。
場所がないからだろうけど。
右横にはこういう羅城門の説明が流れています。
羅城門の1/10の復元模型。
昨日設置されたので、早速見に行ってきました!
でもなぜ京都駅・・どうせなら羅城門のところに設置してほしいなぁ。
場所がないからだろうけど。
右横にはこういう羅城門の説明が流れています。
宝厳院庭園 獅子吼の庭
以下パンフより。
「室町時代、遣明使として二度中国に渡った禅僧策彦周良禅師によって作庭。
嵐山を巧みに取り入れた借景回遊式庭園となっています。
獅子吼は「仏が説法する」の意味で、庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聴くことによって人生の真理・正道を肌で感じる。これを「無言の説法」という。
庭園内には、須弥山を現す築山、その前に人生を思わせる苦海(空池)が広がり、対岸には「雲上三尊石」があり、苦海の中には「此岸」より「彼岸」に渡る舟石、仏の元に渡る獣石が配置されている。その左奥には、中国黄河の上流にあると称される「登竜門」より「龍門の滝」があり、その滝壺には鯉魚石を配し、修行の厳しさを表現している。」
夜間からはライトアップの公開がありますが、その昼間の終わりころにいったので、こんな人がいない感じでした。
ゆったり見れてよかったです。
寺伝によれば、この地は平安時代に法然上人の弟子、念仏房良鎮が往住院を開創し、後に祇王寺と呼ばれるようになったと伝えられている。
平家物語によれば、祇王は平清盛に仕えた白拍子であったが、仏御前の出現により清盛の心が離れてしまったので、母刀自、妹祇女と共に出家し、当地に移り住んだ。のちには仏御前も加わり、念仏三昧の余生を送ったと伝えられている。
現在の本堂は、明治28年(1895)に再建されたもので、堂内には本尊大日如来像を始め、平清盛と祇王ら四人の尼僧像を安置している。
境内には、祇王姉妹などの墓と伝える宝筐印塔及び平清盛供養塔などがある。」
吉の窓
宝筐印塔
左が祇王、祇女、母刀自の墓、右が清盛の供養塔。
鎌倉時代の作。
厭離庵は普段は非公開ですが、紅葉の時期に公開されます。
このあたりは藤原定家の別邸である小倉山山荘があったとされています。
長く荒廃していたのを冷泉家が修復し、霊元法皇より「厭離庵」の寺号を賜り、安永(1772)より臨済宗天龍寺派となりました。
開山は白隠禅師の高弟霊源禅師です。
明治維新後に再び荒れ、明治43年貴族院議員白木屋社長大村彦太郎が仏堂と庫裡を建立、山岡鉄舟の娘素心尼が住職につき、それ以降は尼寺となりました。
書院
残念ながら時雨亭は非公開でした。
本堂
本尊上宮太子作の如意輪観音、そして、開山霊源禅師、西行法師、家隆郷、貫之郷の木造と定家郷、為家郷、為相郷の位牌を安置。
天井に描かれた飛天。
定家郷御塚
定家塚 五輪の塔
しぐれていたこともあり、人はまばらで落ち着いて見られたのがよかったです。
中院山荘跡(小倉百人一首ゆかりの地)
「鎌倉時代初め、この辺りに、僧蓮生の中院山荘があった。
蓮生は俗名を宇都宮頼綱といい、下野国(現在の栃木県)の豪族で、鎌倉幕府の有力な御家人の一人であった。しかし政争に巻き込まれるのを避けて出家し、実信房蓮生と名乗った。(この途に郎党60余人も同様に出家した)後に上洛し、法然上人、次いで善恵上人証空に師事し、この地に山荘を営んだ。
蓮生は和歌の名手で、近くの小倉山麓に山荘を構えていた藤原定家とも親交があり、彼の娘が定家の子為家に嫁いでいる。
嘉禎元年(1235)5月、定家は蓮生が山荘の障子に張る色紙の執筆を依頼したのに快く応じ、色紙の一枚一枚に天智天皇以来の名歌人の作を一首ずつ書いた。「小倉百人一首」はこの時の選歌に、後世、鳥羽、順徳両天皇の作品を加えるなどの補訂を施して完成したものと言われている」