京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

自分のルーツを辿る7 愛媛旅行⑥ 久米郡南久米村 日尾八幡神社、鷹ノ子温泉

さて、鷹ノ子での最後はこちらです。

八幡宮は源氏が信仰したことでも知られています。

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松山市久米町2

 

 

 

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 石●改修寄付●

とあり、二段目に高須賀小三郎、景浦長次郎、戒能政太郎、三段目に景浦和三郎、景浦ウヽ(ウメ?)、五段目に八木庫次郎、一番下にも八木秀頼と八木**名が見える。

浄土寺でも見た名前がありますね。

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案内板によると、

「本殿は西・中・東の三玉殿に分かれ、主な祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと)、帯仲日子命、大帯姫命、宗像三毘売命である。

天平勝宝4(752)年、宇佐八幡から勧請して孝謙天皇の勅願所となり、久米八幡と称し、朝臣久米麻呂と高市古麻呂が斎王になったという。その後文治年間(1185-1189)に源頼朝によって再興され、承久年間(1219-1221)河野通信が社殿の改修をした。以降、河野氏歴代の庇護を受けた。

慶長8(1603)年、加藤嘉明が近郷の八社八幡を松山城の固めとし、当社もその一つとして武運長久の祈願所となった。松平(久松)氏も松山城鎮護として崇敬した。

中殿に奉斎する伊予比売命(いよひめのみこと)は、伊予豆比古神社にまつられる伊予比古命とともに、元は夫婦神として久米郡神戸郷古矢野神山にまつられていたが、洪水で流され、今では分かれてまつられていることは有名である。社名は久米八幡宮から、中世には山の名をとって日王八幡宮と呼ばれ、後日王を日尾に改称したといわれる。松山市教育委員会

 

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なかなか時代を感じる像です。

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結構な階段にちょっと躊躇してしまいます。(登り階段恐怖症・・^^;)

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祭神

西王殿 品陀和気命(ほんだわけのみこと) 応神天皇

    帯仲日子命(たらしながつひこのみこと)仲哀天皇

中王殿 多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)、狭依毘売命(さよりひめのみこと)

    多紀都毘売命(たぎつひめのみこと)

東王殿 大帯姫命(おおたらしひめのみこと) 神功皇后

西王殿側王殿 健内宿禰命(たけうちすくねのみこと)

中王殿 伊予比売神(いよひめのかみ)、饒速日命(にぎはやひこのみこと)

東王殿側王殿 猿田毘古大神(さるたひこのおおかみ)

 

先の説明に書いていないことも書いていましたが、とりあえず省略。

永享年中に河野氏によって社殿が修築されたが、大正13年河野氏滅亡に伴い当社も一時荒廃した、とありました。

そうか、それで河野家の名前が、玉垣や石碑にはあまり見られないのですね。

滅亡したといっても、ほかの子孫は残っているのになぁ。

ところで後で気づきましたが、この石碑の後ろにも高須賀の名が・・。

見落としていました。

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これは比較的新しいものですが、戒能十郎、景浦静太の名があります。

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東道後神社

祭神:天御中主大神(あまのみなかぬしのおおかみ)

   天照皇大神(あまてらすすめらおおかみ)

   月夜見大神つきよみのおおかみ)

 

月読がこの字なのは初めて見ました。

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 一番上の右奥には、

景浦太郎の名があった。景浦太郎の横には、戒能博北?や景浦芳定の名があります。

 親戚が奉納したものもありました。

 これらも新しいですね。

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戒能善次郎、戒能春恵、戒能恪という名もありました。

 

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入口に奉献玉垣という碑があり、依頼主に景浦幸兵衛の名がありました。

遍路石にもあった名前ですね。

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裏に、嘉永七年(1854)甲寅八月成と記載がありました。

 

井内村から離れたこの久米村に、なぜ戒能がいたのかはよくわかりませんが、

ここでも河野家と戒能というつながりがあり、高須賀が川上神社の守を任されたように、この神社の守を任されたのかもしれません。

そして景浦・戒能がこの地の有力者だったことはわかりました。景浦の方が権力ありそうなので、戒能は景浦との政略結婚により地位を保っていたのかもしれませんね。

 

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せっかくなので先祖ゆかりもあるので、鷹ノ子温泉にも足を延ばしました。

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愛媛県立図書館/愛媛県行政資料(藩政期・明治期)久米郡の図

結構小さい集落だったことがわかります。

曽祖父千次郎(1876ー1937)は、ここで温泉を掘り当てて、温泉宿をやっていました。祖母もそれを手伝っていたことが手紙にも書いてあります。やがては祖父に継がせるつもりでしたが、働き手がいなくなり倒産。権利は他の人に譲ったようです。

おそらく明治頃にあったという「大師湯」がこれに当たるのでしょう。

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弘法大師がこのちに立ち寄られて散策されていたときに、

草の間から湯煙が立ち上がっているのを見て、「弁天池」と名付けられました。

これが鷹ノ子温泉の起源と云われています。

とてもすべすべして、気持ちのよいお湯でしたw

 

 

追記。

戒能が深く関わった地なのに、なぜ三島神社がないのだろうと思っていたら…先の熊野神社の地図に三島神社が書かれていました。

日尾八幡神社の北側にありそう…どれだ?と探していると、

松山市畑寺町に、桑原八幡神社があり、別名三島神社とありました。

そして、賽銭箱に河野家の家紋がありました。

昭和52年に桑原八幡神社に合祀されたそうです。

なので今の三島神社はないのですね…。きっと場所も違うところにあったのでしょうね。

ちなみに、この桑原八幡神社は、

延久5年(1073)源頼義により、河野親経が松山八社八幡の二番社に定めています。

『伊予太陽寺社故郷世諺集』には、

「河野家家譜に、延久五年国司伊予守源頼義の命により八ケ所八幡,四九ケ所の薬師堂を建立せり。」とあるとか。

この辺りも意味がありそうなので調べたいですね。

 

 

自分のルーツを辿る6 愛媛旅行⑤ 久米郡鷹ノ子村 遍路石

浄土寺の方から線路を渡って、南へ行くと、まず見えてきた石碑がこれです。

事前に遍路石に景浦の名前があることは知っていたので、見に行きました。

 

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左 へんろみち 、すぐこんぴらみ(ちは地中?)、國中 家内安全 

嘉永二年(=1849) 助力当村中 世話人 景浦幸兵衛 

 

讃岐街道まで南下して、西へ向かいます。

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松山市鷹子町24番地 久米小学校の北

このあたりに四国遍路石訳1000基の中でも、一番立派だという遍路石があります。

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南を指さした指型(西林寺方面) きゃくへんろ道(逆遍路道

文久二年戌三月(=1862) 為村中安全冥加

その下に 世話人 景浦幸兵衛

 

指型 みきへんろ道(右遍路道

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道法 松山札之辻 二里、三津浜 三里、道後湯之町 一里、久万町 六里、来見 六里、郡中 三里

施主 乃万与三衛門、同七郎衛門、三好嘉右衛門、荻山平左ヱ門、景浦幸兵衛

 

名前が2つもあり、施主の最後に名を連ねていることから、このあたりの権力者だったと思われます。

時代としては、曽祖父の母(景浦卒平の次女/1946年生)の頃です。

戒能助次郎は、もし今と番地が同じであれば、この小学校の東側あたりに住んでいたことになります。

景浦卒平については何もわからないので、何か情報が見つかってほしいものです。


 

さて、今度は北上して、日尾八幡神社を目指します。

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これは通り道にあったもので、一角にぽつんと小さな祠がありました。

手前に柱があり門があったのかもしれません。

景浦とは関係ありませんが、気になったので見てみました。

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西面:従金毘羅大門二十九里

北面:久米郡古川村

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東面:読めず・・

南面:文化十酉十月吉日(=1813 癸酉)

 

この3つの中では一番古い石碑でした。

このあたりは古川村だったのですね。

 

 

現在の鷹ノ子町は、赤のラインになり、遍路石があるところまでですね。

 

鷹ノ子の先祖については、やはり『久米村誌』『久米村誌資料集』『久米郷土誌』を見ないとこれ以上はわからない気がしました。古本屋でも買えるようですが、見ると8000円もしました^^; 図書館で読むには時間がかかりそうだし・・東温市のようにデータで見れたらよいのになぁ。

愛媛県大学付属図書館地域資料に所蔵されています。1965年編纂だから新しいけど、聞き取りして作成しているもの、と思いたい。

愛媛在住の方で、同様に先祖を調べていて、ご協力いただける方がいたらうれしいです。

 

自分のルーツを辿る5 愛媛旅行④ 久米郡鷹ノ子村 浄土寺

私の曾祖父の祖父、戒能助次郎は鷹ノ子村に住んでいました。

その次男は別の家に養子に入って跡を継ぎ、景浦家の次女と結婚します。

浄土寺に本家の墓がありますが、この次男と養子先の親以降しかありません。

そして、その子供(曽祖父)が、鷹ノ子の湧出地で温泉宿をしていましたが、のちに倒産してしまいます。

 

 

助次郎はおそらく名前から次男だと考えますが、遡れるのはここまでで、その両親も兄弟もわかりません。この助次郎の墓でもあればまた何かのとっかかりになりそうなんですけどね。もしかしたら、この浄土寺のどこかに眠っているのかもしれません。

この戒能と景浦、そして養子先の関係もいまいちよくわからないんですよね。

同じ村に住んでいたから・・という理由だけではないでしょうし。

助次郎から鷹ノ子に来たのか、その前から住んでいたのか・・?

ちなみに景浦はこの鷹ノ子村の有力者だったようです。

 

ここで、本家の親戚と合流しました。

祖父の弟の子供で、私は直接よく知らないのもあって、従兄と叔父の協力を得ました💦


 

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愛媛県松山市鷹子町1198

正式名は、西林山 三蔵院 浄土寺真言宗豊山派。四国八十八カ所霊場のひとつ。

以下「愛媛県の霊場」より

縁起によると天平勝宝年間に女帝孝謙天皇勅願寺として恵明上人により開創。本尊は、行基菩薩が彫像した釈迦如来像。鎌倉時代の建久3年(1192)、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復した。だが応永23年(1416)の兵火で焼失。文明年間(1469-1487)に領主、河野道宣公によって再建。

 

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扁額は西林山となっています。

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石碑はとりあえずチェックです。

仁王門寄付石

金百円 鷹ノ子 景浦廣次郎

金六十円 鷹ノ子 戒能政太郎

金五十円 鷹ノ子 景浦ウメ

金二十三円 鷹ノ子 景浦和三郎

金二十円 ** 高須賀太郎

金十五円 鷹ノ子 景浦通計

     ** 景浦重政

     ** 高須賀●吉

     ** 高須賀三郎

といった文字が読めます。

この中に、曽祖父の名前もありました!(養子先なので書いていません。)

名前の漢字が戸籍とは異なりますが、ただ、珍しい苗字なので、間違いないと考えます。

 

裏面には大正11年5月とありました。

年代を見ても、曽祖父が46歳頃のことでした。

名前も景浦とかちらちら見えますが、読めませんでした・・。

 

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空也上人像って京都だけじゃなかったんですね!

これみてびっくりでした。

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浄土寺では、お墓と過去帳(実際は見られないです。)を確認しました。


そしてこの後、本家に寄り、位牌を見せて頂きました。本家の家の屋根の瓦に家紋があったのもびっくりでした。



自分のルーツを辿る4 愛媛旅行③ 南方村 熊野神社

はじめに・・私の両曽祖母ツナが高須賀になります。

戸籍によると、則之内村高須賀源八の長男伊五郎の長女になります。

ただ、ツナのメモでは、源八ではなく綱次なんですよね。

曽祖母がわかりにくければ、下記系図をご覧ください^^;

『川内町誌 第二部三内』P497 埋葬墓地管理者名簿(昭和30年現在)

惣田谷 高須賀伊五郎の名があります。

『川内町誌 第二部三内』P501

東谷郷道の改修
起点 大字則之内一ヶ谷国道三一号線より 終点 大字河之内金毘羅下松尾坂取付まで 竣工 明治三十四年四月二十八日
助役
高須賀源吾

西谷郷道改修 起点 大字則之内法界門橋より 終点 大字井内宮川まで 起工 明治三十四年十一月十五日 竣工 明治三十五年五月二十五日 助役 高須賀源吾より曽我部伝三郎に終る 委員 菅野兼太郎、高須賀作平、渡部藍蔵

源吾は、ツナの弟で、1914年松山の第三十二連隊に入隊し、朝鮮の龍山へ渡って、帰国後赤十字病院で勤めました。

 

 

伊予高須賀家の系図で発見出来ているものは、現時点で2つ。いずれも近代に編纂されたものに収録、又は筆写されたもので、残念ながら信憑性には欠けます。

 

①〔川内町誌〕収録の高須賀氏系図

 南方村庄屋高須賀家のものと推測

②〔伊予不動記大系図〕収録の高須賀氏系図 (伊予史談会文庫)

 則之内高須賀家のものと推測。※ただし、昭和14年1月寫(うつし)

 

2つの系図は、 内容が一致しませんが、いずれも清和源氏の子孫とすることや、要点要点でキーワードに類似性はあります。

①は、先祖は源満仲で、のちの堀口備後守堯氏が高須賀の祖とし、高須賀源左衛門堯倫が南方村の初代庄屋とされています。そして、応永2年(1395)熊野神社再建しています。

②は、先祖は木曽義仲とし、年代が抜けていたり、無理やりこじつけたような、疑わしいところもたくさんあります。義仲の子義則が伊勢国の高須賀村(現愛知県中川区)に住んでそれを苗字としたなどともあります。その後、1600年頃より高須賀季張が、則之内村に住んだとあります。

 

個人的な見解ですが、①の堯倫が南方村に住み庄屋となった頃より、高須賀を名乗るようになったと考えています。

 

 

東温市牛渕に「浮島神社」があります。平野にもかかわらず、なぜ「浮島神社」なのか? それは下記絵図を見ると明白です。

『所蔵地図データベース』松山道後を中心とせる名所交通圖繪 (1927年、昭和2年)より

 

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地図の右側が南になります。浮島神社がある場所は、当時の重信川(昔は伊予川)の中洲にご鎮座されていることがわかります。島に浮いているから浮島神社なのです。

 

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さらに、浮島神社から数キロ先の上流にも中洲があります。地図には川上と書いてあり、左上には金毘羅寺(河之内名超)が見えます。右上が高知にあたるので、中州は、現在の東温市南方のあたりで、まさに高須賀一族が住んだ場所になります。ちなみに須賀・州賀は、砂処・州処のことで、砂地から来ています。つまり、中洲の上流にあったので高洲と呼び、高州賀→高須賀と書くようになったのではないでしょうか?

 

愛媛旅行①の川上神社にも書きましたが、応永中(1394~1428)、高須賀堯倫は河野家に仕え、南方村庄屋を命じられ、その子堯基が庄屋となりました。そして河野家より、祈願所川上稲荷五社大明神(当神社)の社の守を命じられました。

この時に川上神社周辺の則之内村にも住むようになったと考えるのが自然じゃないでしょうか。

 

そう考えると、南方村の熊野神社は、高須賀の先祖とゆかりも深いことになります。上の地図には記載はないですが、伊勢国熊野神社と同様に中洲に作ったと思われます。

三島神社から、こちらも車ですぐのところにありました。

 

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『川内町誌 第一部川上』P260

熊野神社(南方) 

大字南方字竹ノ鼻

(境内神社、高木神社、素鵞神社、奈良原神社、和霊神社加藤神社、寒神社)

祭神 速玉男命、伊弉冉命事解男命菊理姫

 

由緒 応永2年(1395)9月17日、南方圧屋高須賀堯倫、紀州熊野神社から之を勧請して竹の鼻に祀り、産土神とする。その後熊野神社と号した。明治4年に他へ合祀されたものの、旧氏子70余戸の請願によって復旧再興された。『浮島神社の社誌』によると、竹の鼻、高木山、上福寺を熊野三所権現という。

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明治15年1月に復旧再興され、130年たって社殿が老朽化が激しく、

平成20年に造営されました。そのため新しいです。

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これによると境内神社は、平成20年10月に本殿に合祀されたのですね。

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前の瓦が石垣のところに置かれていました。

河野家の家紋ですね。

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ちなみに今のは八咫烏に変わっていました。

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本殿

何もなくてかなりさみしい・・。

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扁額は、熊埜神社と書かれていました。

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玉垣

金百圓 福岡市 高須賀嘉太郎

金五十圓 別府市 高須賀孟

     ●田市 高須賀玉光

金三拾圓 朝鮮 高須賀満政

地方からの寄付があったのですね。

復興された明治15年頃と推測します。

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こちらは鳥居寄御芳名録とあります。

金五拾円 高須賀万平、高須賀兵蔵、高須賀為吉

金三拾円 高須賀菊次郎、高須賀卯三郎、高須賀冬雄

金五拾円 高須賀甚作、高須賀●三郎、

金拾五円 高須賀重郎、

金拾円 高須賀ミネ、高須賀清三郎、高須賀玉光、高須賀亀吉、高須賀直市

金八円 高須賀幾次

金七円 高須賀次平

金六円 高須賀安吉

金五円 高須賀吉重郎、高須賀貞常、高須賀兵四朗、高須賀廣太、高須賀八太郎、

    高須賀仙吉、高須賀勝三郎、高須賀仁三郎、河野喜三郎

金三円 高須賀●次郎

金二円 高須賀久美、高須賀源四朗、高須賀宇三郎

金壱円五十銭 高須賀儀一

金壱円 高須賀光雄、高須賀寅吉、高須賀久吉

 

書きだしただけでも、高須賀家多いですね。

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裏にも、高須賀亀吉の名が読めました。

 

少し則之内から離れているからでしょうか。

やはり先祖に関係のある名前は見当たりませんでした。

 

 

ところで、地図を見ていると、

伊勢国熊野神社南方の熊野神社と平行線に並んでいるようだったので、

緯度経度を調べてみました。

https://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/sphere/coordinates/

 

伊勢国熊野本宮大社

北緯33度50分28秒

東経135度46分26秒

 

南方熊野神社

北緯33度47分46秒

経度132度54分6秒

 

若干ずれていますが近いです。

 

則之内三島神社

北緯33度47分40秒

経度132度54分54秒

 

全く同じですね。

神社を調べたら、もっと何かありそうな気がしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分のルーツを辿る3 愛媛旅行② 則之内村 三島神社

三内村は河之内村、則之内村、井内村からなります。

明治22年の町村制により、字 徳吉、則之内北、則之内南、永野、一ケ谷、保免、和田丸、惣田谷上、惣田谷下は、下浮穴郡三内村則之内となり、明治30年4月に温泉郡となりました。(曾祖母高須賀ツナは惣田谷出身。)

 

三島神社は、河之内村と則之内村の二か所にありますが、河之内村にはあまり親族はいないこともあって、則之内村の方へ行ってきました。

車で行ったのですが、川上神社からも近かったです。

京都の三島神社についてはこちらをどうぞ

kyotomichi.hatenablog.com

 

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変わった鳥居ですね! 古い感じがとっても好きな雰囲気でしたw

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扁額も変わっています。三島宮と書かれています。

ただこれはちょっと新しそうな・・?

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こちらも具体的な説明はなかったので、

『川内町誌 第二部三内』P476~より抜粋。

 氏宮三島神社(則之内) 

大字則之内宮之前 

祭神 大山積命、雷神 高龗神

境内神社 八幡若宮神社龍神社、鎌倉神社、猿田彦神社

 

由緒 当神社は上古の世久米主命、神籠を立て大山津見を斉き祀って氏之宮大神と称し、氏神とした。人皇第四十三代元明天皇の御世和同5壬子年(712)8月23日、越智玉興、当国大三島から高龗神、雷神を勧請して合祀した。文永、弘安の役、蒙古襲来の節は勅を奉って、河野通有及び河野通純は国中の神社に祈誓、出陣し筑紫に下ったが、その時神の助けがあって手柄をたてた。嘉吉(1441-1444)の頃、名越の城主河野四朗が武器を奉納して崇敬したという。

 

越智は河野の先祖とも言われています。

つまり、河野家が信仰した神社になります。

 

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写真はいつもとりあえず解鮮度高めで撮影して、あとからPCで詳しく見ています。

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本殿に着くまでにいろいろ発見。

東京とありますが、高須賀茂の名がありました。

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こちらは高須賀林平

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玉垣建設記念、元温泉郡長正五位勲五等倉根是翼書

昭和3年10月 比較的新しいですね。

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世話人として、高須賀林平、八木嘉妻、戒能公玄、高須賀嘉作、高須賀秀吉の名がありました。

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有形文化財 木造こまいぬ二躯

「阿形、吽形ともほぼ同じ大きさで、両像ともに力量感及び勢いがあり、丁寧な造りとなっています。表面に施されている塗りは江戸時代末頃に行われたもので、作られた当時は木地だったと考えられます。

胴体は一木造となっており、尾の部分だけ後で取り付ける工法となっています。

また台座の部分は裏面には四か所の穴があり、四本の脚を持った台座にこまいぬは置かれていたものと想像されます。こまいぬの作者については、随身像と作風及び材質が似ていることから同一人物の作品ではないかと考えられています。また製作時期は、随身像に書かれていた「延文5年、1359年」ごろに作られたのではないかと考えられています。」

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随身立像 二躯

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戒能静雄、高須賀フジ

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よく見たら・・戒能の「能」の字が、本能寺の「能(右が去)」になっています。

たびたび火災にでもあっていたのでしょうか?

そして間の柱にも戒能の名が!

本能寺についてはこちら。

kyotomichi.hatenablog.com

 

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こちらは全部高須賀です。

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拝殿

こちらの拝殿がまたすごかった。

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大山積大明神

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寄付者奉名がずらりと書かれています。

この中にも名前がいろいろ見られます。

以下、地域が関係ありそうなものだけピックアップしています。

 

幟(のぼり)奉納者に、

八木公成 保免、八木清一 保免、八木満 和田丸

ただ、平成10年とあるから、最近ですね。

 

他、鳥居改修工事寄付者芳名

昭和53年10月吉日

これも新しいですね。

 

惣田谷上区

金一萬円也 高須賀政数、高須賀信、高須賀哲、高須賀紋太郎

 

惣田谷下区

金一萬円也 戒能作平

金六千円也 高須賀定信、戒能猛、戒能俊●、高須賀茂、八木新三郎、八木岩市、

八木清●、高須賀佶、高須賀藤晴

金参千円也 八木忠幸

 

保免区

金参萬円也 八木清志

金壱万円也 高須賀平●、八木公●、戒能申●

金六千円也 近藤義則、八木隆義、近藤光雄

 

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何かはわかりませんが、南方村からの奉納ですね。

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こちらは川上村からの奉納

 

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本殿。

南北朝時代の建立とされ、三間社流造となっています。

河野家の家紋がありました。

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不思議な方向に並んでいる摂社。

高須賀富太の名がありました。

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戒能公玄

小さい柱には、戒能光●、高須賀猶蔵、八木又市

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先ほどの世話人の名にもあった、高須賀嘉妻

小さい柱には、高須賀岩太郎、戒能豊蔵

 

おおっ、ありましたよ、先祖に関係のある名前がっ!

私の曾祖父母の祖母の実家も戒能家で、兄の長男が虎(寅)太郎(本家/須之内村 惣田谷)、二男が豊蔵(分家/須之内村 惣田谷)なんです。

虎太郎は、1925年(大正14)5月31日没、豊蔵は1960(昭和35)6月没 88歳でした。

昭和3年玉垣を作っているので、この時のものでしょう。

まさに同時代ですしね。

本家は、借金で差し押さえになってしまったのでないのです・・。