京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

自分のルーツを辿る2 愛媛旅行① 川上村 川上神社

2017年3月の連休に、愛媛へ行ってきました。(いまだ全然まとめられていない)

同様に調べている人たちと、どこかで繋がればいいなぁと思い、公開できるところだけ書いて行きたいと思います。

ということで、ちょっとだけ歴史について触れますね。

 

私は先祖は、戒能(かいのう)家です。

戒能は、中世の伊予国を治めていた豪族、河野(こうの)家の家臣として活躍していました。河野家は『吾妻鏡』にも出てきます。源頼朝側について挙兵し、実朝の時代まで深いかかわりを持っていたようです。河野通信は、3年半(わかる範囲で・・1199年10月-1203年4月)鎌倉で過ごしました。そして1205年閏7月29日、伊予国御家人32人を通信の支配下として務めるよう実朝から御書が下されました。

 

河野氏一門三十二将の一人であった戒能備前守通盛は、井内村の小手滝城、則之内村の大熊城の城主を務めました。

(私が中世時代、源氏に興味があるのはこのあたりのことも関係しますw)

 

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簡単に書いた系図。実際はもっと複雑・・。

 

先祖は、東温市温泉郡三内村(井内村、則之内村、河之内村)と久米郡鷹子に住んでおり、ほとんど身内婚で血縁を結んでいました。先祖には、戒能家、八木家、高須賀家、近藤家(ツナの母)という、当時の豪族がずらり。興味を持たないわけにはいきませんよね。

 

伊予史談会編纂の『戒能資料』

「戒能与惣左衛門通常

 ―(略)―延宝五丁己の年、松山の領主隠州公より庄吏の勤め宜しく聞召し八木拝領せり

「当家譜代の家臣八人あり、其内八木高須賀、西、是等の末裔今に至るまで是あり」

 

つまり、八木、高須賀もまた、戒能の家臣であり、八木は戒能から分家したものと思われます。同様に戒能も、河野家から分家したものと考えられています。

もちろん二次・三次資料で確証もないですけどね。

そういうこともあって、すべての家系を調べており、かなり時間がかかっています・・。

 

今回の旅行は3日間。

井内村も行きたかったのですが、さすがに遠いので今回は断念しました。

 井内村はこのあたりになります。

 

航空写真で見ると、土地がよくわかります。

高知から山越えで攻められたときの防衛として、井内村の小手滝城が任されていたのでは・・?と考えています。

旧三内村の地図は、「とうおんデジタル資料館」 『川内町誌』 (昭和三十六年四月刊行) に掲載されています。

 

 

久米郡川上村はこの井内村の北にありました。

後に三内村と合併して、温泉群川内村になりました。

 

 

 私の父方の曾曾祖父母&母方の曾曾祖父母に、八木常蔵・タマ夫妻がいました。その子供に常蔵・アサノ・基一がいました。(井内村北間)

アサノ(宇三郎に嫁ぐ)は、27歳頃(1916年頃)川上神社の近くに住み、薪炭商をしていました。このあたりには、タマ(旧姓松木家)の実家があり、その親戚たちも住んでいたので、その縁で移り住んだと思われます。

「この松木という姓は川上村に多く、明治・大正時代には村長を務めたものもいる」と祖父毅も書いています。

※ここでは、わかりやすく戒能と書いていますが、実際は江戸時代に養子に入っており苗字は変わっています。常蔵・タマの母コメの実家も戒能(則之内村惣田谷)になります。そして父方の祖母&母方の祖母が高須賀家(則之内村惣田谷)です。

私にとっては、三内村の次にゆかりがある村、ということで、まずはここを訪れたわけです。

 

(祖父毅の自伝より)

「大宮社を中心に東西に二キロほど延びた商店街があった。道路が家並みの北側を走り、その北側に幅三メートルほどの川が流れていた。叔母(祖父の父の妹/私の曾祖母)の家から五十メートルほど東へ行ったところに石橋があり、橋の向こうに石の鳥居。そこから高い石段を登ると、東西へ通ずる道路がよこぎっており、その向こうにまた鳥居があって、更に数段の石段を登った向こうに大きな社殿があった。昭和19年に県社となったが立派な神社だった。」

 

温泉郡川内町南方川上にある川上神社がこれにあたります。

もともとは、大宮社、河上社、河上大宮社、稲荷五社大明神などと称せられていたが、明治4年に「川上大宮五柱大明神」に、明治28年には「川上大宮五柱神社」に、そして昭和18年には現在の「川上神社」と改称しました。

 

 

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地図を見ていたらまさにここだっ!と感動ものでした。

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今も川と石橋があります!

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扁額は大宮五柱神社になっていました。

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鳥居の左手(西側の風景)

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石垣のようなものがありました。

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幅3mはないと思いますが、川が流れています。

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このあたりに住んでいたのかなーなんて思いながら歩いてみます。

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左 金毘羅道、嘉永3庚戌極月・・と書かれています。

嘉永3年(1626)、この年は丙寅なんだけどな・・??

庚戌だと、寛文10年(1670)のはず。極月は12月のことになります。

この界隈は、金毘羅街道の重要な宿場町として栄えていました。

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階段を上がったところ。

一番左の玉垣(石柱)に、高須賀東四朗重三とありました。

先祖にゆかりのある苗字を見つけるだけでウキウキします。

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松瀬川村

高須賀五良次、近藤十次郎の名がみえます。

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縣社昇格記念井戸

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(由緒書きなどなかったので、以下、『川内町誌』 より抜粋)

祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、

   瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、稚産霊命(わかむすびのみこち)、

   猿田彦神(さるたひこがみ)

境内神社 荒神社 大無主命 日廼安良魂命

     秋葉神社 軻遇突知命、弥郡波能売命

 

愛媛県神社庁のホームページには以下のように書かれていました。

大分変わっていますね・・。

三島神社大山積神)、荒神社(大物主命)、 秋葉神社(弥都波能売神、外一柱)
和霊神社(山家公)、 戎子神社(事代主命)、 八幡神社応神天皇
床浦神社(田心姫命、外二柱)、 天満宮菅原道真公)、 鎮守社(埴安姫命)
大塚神社(荏原経高)

 

由緒 北方古宮にあった当社を、応永三十四年(1427)河野通久公の御心願によって、現在のところへ御造営奉遷した。其の後、社仏廃合の時合祀して、川上大宮五社大明神と号するようになった。あわされた五社とは、来名戸宮、豊受宮、饒田宮、倉稲魂宮、浮橋宮である。この宮郷社に列して、北方、南方、松瀬川下分の大氏宮で、後県社に昇格、川上神社と改められた。(略)

 

応永中(1394~1428)、高須賀堯倫、河野家に仕え、南方村庄屋を命じられ、その子堯基が庄屋となった。そして河野家より、祈願所川上稲荷五社大明神(当神社)の社の守を命じられた。宝庫国の鍵を預かり、高須賀家代々継承。堯普が死亡したことによって社守は終わったといわれている。現存している木製の狛犬一対は、室町時代に河野家より奉納されたものだと伝えられている。寛永4年(1627)、高須賀堯章は、南方村庄屋となり、浮穴郡庄屋頭を命じられ乗馬を賜ったという。また、天保12年(1841)9月、氏子頭高須賀堯芳、重松元決、玉井正昇より、正二位飛鳩井惟光、正二位鷲尾隆純、正二位三条実萬が書いた和歌額を奉掲している。

 

つまり高須賀家は、この川上神社の守を代々継承されていたわけなんですね。

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狛犬は新しくなっており木製のは確認できませんでした。

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何の石碑かわかりませんでしたが、古そうな石碑ですぐ目に飛び込んできました。

見ると、高須賀重堯 とありました。

その上には、高須賀堯晋の名も見えます。

この堯晋が最後の社守ですね。

 

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川上郷五社神神

福人人亦真五穀

豊民寧楽威霊曜

光益新***

というように読めますが、意味はわかりません。

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ここにも高須賀東四朗の名前がありました。

東温市立図書館『川上村のおもかげ』P23には、幕末の頃の古老傳で、南方村の組頭とありました。

そして下には近藤八蔵という名がありました。

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郷社 大宮三社大明神

明治12年(1879)己卯良月三石(?)南方村中 ** と読めます。

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天満宮

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本殿

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境内は結構広かったです。

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川上神社古墳出土馬具

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こちらにも川上神社古墳の説明がありました。

大正3年に発見され、昭和25年県指定史跡となっています。

横穴式石室の古墳で、墳丘の大きさは約40mと20mの長方形または長円形で、高さは約5m。

墳丘には二つの石室があって、東側の石室は開口されているが、西側は閉鎖されている。

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らしきものを探してみるもよくわからず・・。残念。

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この社も変わっていますよね。

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あとは寄付金が書かれたものがありました。

こちらは5~7万円。

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高須賀義男さんは10萬円也。石柱も立派ですね。比較的新しいです。

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こちらは川上神社本殿修復

右から2番目に金壱萬円也 高須賀大次郎の名がみえます。

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ずっと見ていくと、金壱萬円也 高須賀●一、高須賀忠●、高須賀常久の名がありました。

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このあたりの石柱にも、細かい字で名前が書かれています。

左端の柱の一番下の右から2番目に、高須賀芳平・・かな?

 

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こちらは真ん中の柱に、金五拾円 高須賀正一とあります。

先ほどの金壱拾萬円と同じ大きさなので、おそらく時代が古く同額ぐらいかと思われます。

 

先祖と直接関係ありそうな名前はなかったけれど、おそらくどこかではつながっているんじゃないかなーと思うだけでも、なんだか嬉しかったです。

この神社では、戒能や八木の名前は見つけられませんでした。

自分のルーツを辿る 1  ルーツの調べ方

私のルーツは愛媛県にあります。

私の両親はいとこ同士なので、祖父母が姉弟です。

さらに曾祖父母も兄妹だったりします。(詳細はもっと複雑ですが・・)

そして曾祖父母の代までは、愛媛県下浮穴郡三内村(今の東温市川内村)にいました。

 

 

祖父が残した自伝がとても興味深くて、自分でも調べてみることにしました。もともと父方母方それぞれの親戚が調べていたこともあって、それを共有すればかなりのことがわかります。両方の資料が手に入る私しか、まとめることはできません。

それなら今のうちに調べておこうと思いました。

そして2016年からまとめ始めて・・すでに膨大な量になっています。^^;

もちろんまだ終わりすら見えませんが、どうルーツを調べていくのか、これから調査しようとしている方にも参考にもなればよいなと思います。

 

 

【ルーツの調べ方】

 

1.先祖の残したもの

 (私の場合、祖父の自伝、祖母の手紙、曽祖父の日記、曾祖母の手紙、両親・親戚からの聞き取り、親戚からもらった写真、地図など)

 

2.戸籍調査

 戸籍の取り寄せができるのは、戸籍に記載されている人または配偶者、直系尊属・卑属に限られています。叔父・叔母などの戸籍は委任状が必要になります。ちなみに戸籍制度は、明治5年(1872)に本格的に開始されましたので、一番遡れてもこのあたりまでです。

(私の場合、父方母方の親戚が持っていたものをもらい、それ以上のものについては愛媛の親戚に頼みました。)

*昔の戸籍は間違っていることがあります。実際の誕生日や死亡日と戸籍の年月日が違うことがあります。これは幼くして亡くなることも多く、ある程度成長してから届けたりしていたようです。

また、手書きのため漢字が間違っていることもあります。二郎が次郎だったり、虎が寅だったり。昔はあまり区別するという認識がなかったのか、もしくは使いやすい方を使っていたのだと思います。実際、松木が松本になっていたりもしていました。戸籍が必ず正しいとは考えず、どっちでもよいのだと捉えてください。

 

3.お墓を調べる

 お墓には名前、亡くなった年月日、年齢、戒名が書かれていることがあります。夫婦で入っているときは妻の名前も記載されています。文字が読めない場合は拓本を取るのもひとつ。私は写真を撮って加工して読みました。

 

4.位牌を調べる

 位牌には、名前、亡くなった年月日、年齢、戒名が書かれています。●●家代々先祖とまとめられたものでも、中に代々の名前が書かれた木札が入っている場合があります。

 

5.寺院の過去帳を調べる

 寺院によるかもしれませんが、私が行ったところでは、過去帳は亡くなった順に書かれているので、他人のプライバシーがあり見せられないとのことでした。亡くなった日と名前を伝えたら見てもらうことはできましたが、それ以上のことはわかりませんでした。

また、漢字が間違っていたり、戸籍と過去帳の名前が違ったり、戒名の書き間違いもあります。昔は長男だけが大事だったので、長女でも名前を残してないことも多いです。そして、戸籍の名前とは別に通称名があったりするので、名前が違うのはそれもあるのかもしれないとのことでした。

 

6.家紋を調べる

家紋は、自分の家に伝わる紋章。墓石に彫られていることが多いです。

あとは仏壇や着物に入っている場合があります。

 

7.苗字の由来を調べる

苗字の由来から何かつながりが見えてくることがあります。

町名から苗字をつけたり、その逆もあります。その苗字が多い地域には、歴史上の人物ともゆかりがあるかもしれません。

 

8.先祖が住んでいた地域の文献や伝説などを調べる

私の場合ですが、東温市に関する資料がネットのデーターベースで読めたので、これがかなり役立ちました。また、伊予史談会保存の資料(愛媛県立図書館にあり、事前に申請して見ることが可能)も参考にさせていただきました。当時と村名・町名などが変わっているので、まずはそこから調べました。

 

8.現地調査(神社仏閣、町など)

昔の人は信心深かったこともあり、地元の神社仏閣とは何かしらゆかりがあることがあります。 私の場合は、奉納された石碑などに一族の名前がありました。

 

 

 

私の好きな高田崇史さんの「QEDシリーズ」には、

「歴史は覚えるものではなく、考えるものだ」とあります。

また、私の尊敬する歴史地理史学研究家の中村武生先生は、

「歴史を知る上で、家系図特に女性の系図も大切だ」とよく言われています。

昔の人はどうにかして血筋を残そうとされていたんですよね。

そうして調べたことから、あとは考えていくことも紐解く鍵になります。

 

【まとめ】天皇陵墓

歴代の天皇の陵墓は、宮内庁の管理下にあります。

皇室典範によると、天皇、皇后、太皇太后、皇太后の墓を「陵」、皇太子や親王などの皇族は「墓」と定めています。多くは幕末から明治年間に治定されました。

 

ちなみに・・

天皇は、崩御されてから贈られる称号。

 生前は天子、禁裏、禁中、主上、帝、当今、今上皇帝と呼ばれます。

 ただ、62代村上天皇を最後に「天皇」の称号は贈られなくなり、120代より光格天皇より天皇号が復活しました。明治維新後は生前から使用されるようになりました。

 

上皇は、太上天皇の略で天皇を退位した後に贈られる称号。

 他、仙洞(せんとう)、本院、新院などと呼ばれます。

 

法皇は、太上法皇の略で、出家した上皇に贈られる称号。

 

「院」は、天皇に代わって贈られた称号。

63~80代は天皇号が廃止されて院号をつけられています。

 

 『雲上明覧(大全)』:歴代の天皇や公家などの名前が書かれた書物より

 ※95代~南朝のみ書かれているため、下記とは何代が若干異なります。

 

ややこしいですねー。

この区別をよくわかっていなかったので、歴史研究家の中村武生先生の講義も受け、勉強させてもらっています。

今書いている小説が天子など皇族が出てくるので、歴史背景に困って書いては止まっています・・。呼び方修正しなければ(笑)

陵墓もその祀り方の違いに興味を覚えて、ちょこちょことめぐっているので、ここでまとめたいと思います。

 

1

神武天皇

じんむてんのう

畝傍山東北陵

うねびやまのうしとらのすみのみささぎ

奈良県橿原市大久保町

2

綏靖天皇

すいぜいてんのう

桃花鳥田丘上陵

つきだのおかのえのみささぎ

奈良県橿原市四条町

3

安寧天皇

あんねいてんのう

畝傍山西南御陰井上陵

うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ

奈良県橿原市吉田町

4

懿德天皇

いとくてんのう

畝傍山南纖沙溪上陵

うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ

奈良県橿原市西池尻町

5

孝昭天皇

こうしょうてんのう

掖上博多山上陵

わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ

奈良県御所市大字三室

6

孝安天皇

こうあんてんのう

玉手丘上陵

たまてのおかのえのみささぎ

奈良県御所市大字玉手

7

孝靈天皇

こうれいてんのう

片丘馬坂陵

かたおかのうまさかのみささぎ

奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目

8

孝元天皇

こうげんてんのう

劔池嶋上陵

つるぎのいけのしまのえのみささぎ

奈良県橿原市石川町

9

開化天皇

かいかてんのう

春日率川坂上

かすがのいざかわのさかのえのみささぎ

奈良県奈良市油阪町

10

崇神天皇

すじんてんのう

山邊道勾岡上

やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ

奈良県天理市柳本町

11

垂仁天皇

すいにんてんのう

菅原伏見東陵

すがわらのふしみのひがしのみささぎ

奈良県奈良市尼辻西町

12

景行天皇

けいこうてんのう

山邊道上陵

やまのべのみちのえのみささぎ

奈良県天理市渋谷町

13

成務天皇

せいむてんのう

狹城盾列池後陵

さきのたたなみのいけじりのみささぎ

奈良県奈良市山陵町

14

仲哀天皇

ちゅうあいてんのう

惠我長野西陵

えがのながののにしのみささぎ

大阪府藤井寺市藤井寺4丁目

15

應神天皇

おうじんてんのう

惠我藻伏崗陵

えがのもふしのおかのみささぎ

大阪府羽曳野市誉田6丁目

16

仁德天皇

にんとくてんのう

百舌鳥耳原中陵

もずのみみはらのなかのみささぎ

大阪府堺市堺区大仙町

17

履中天皇

りちゅうてんのう

百舌鳥耳原南陵

もずのみみはらのみなみのみささぎ

大阪府堺市西区石津ヶ丘

18

反正天皇

はんぜいてんのう

百舌鳥耳原北陵

もずのみみはらのきたのみささぎ

大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁

19

允恭天皇

いんぎょうてんのう

惠我長野北陵

えがのながののきたのみささぎ

大阪府藤井寺市国府1丁目

20

安康天皇

あんこうてんのう

菅原伏見西陵

すがわらのふしみのにしのみささぎ

奈良県奈良市宝来4丁目

21

雄略天皇

ゆうりゃくてんのう

丹比高鷲原陵

たじひのたかわしのはらのみささぎ

大阪府羽曳野市島泉8丁目

22

淸寧天皇

せいねいてんのう

河内坂門原陵

こうちのさかどのはらのみささぎ

大阪府羽曳野市西浦6丁目

23

顯宗天皇

けんぞうてんのう

傍丘磐坏丘南陵

かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ

奈良県香芝市北今市

24

仁賢天皇

にんけんてんのう

埴生坂本陵

はにゅうのさかもとのみささぎ

大阪府藤井寺市青山3丁目

25

武烈天皇

ぶれつてんのう

傍丘磐坏丘北陵

かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ

奈良県香芝市今泉

26

繼體天皇

けいたいてんのう

三嶋藍野陵

みしまのあいののみささぎ

大阪府茨木市太田3丁目

27

安閑天皇

あんかんてんのう

古市高屋丘陵

ふるちのたかやのおかのみささぎ

大阪府羽曳野市古市5丁目

28

宣化天皇

せんかてんのう

身狹桃花鳥坂上

むさのつきさかのえのみささぎ

奈良県橿原市鳥屋町

29

欽明天皇

きんめいてんのう

檜隈坂合陵

ひのくまのさかあいのみささぎ

奈良県高市郡明日香村大字平田

30

敏達天皇

びだつてんのう

河内磯長中尾陵

こうちのしながのなかのおのみささぎ

大阪府南河内郡太子町大字太子

31

用明天皇

ようめいてんのう

河内磯長原陵

こうちのしながのはらのみささぎ

大阪府南河内郡太子町大字春日

32

崇峻天皇

すしゅんてんのう

倉梯岡陵

くらはしのおかのみささぎ

奈良県桜井市大字倉橋

33

推古天皇

すいこてんのう

磯長山田陵

しながのやまだのみささぎ

大阪府南河内郡太子町大字山田

34

舒明天皇

じょめいてんのう

押坂内陵

おさかのうちのみささぎ

奈良県桜井市大字忍阪

35

皇極天皇

こうぎょくてんのう

重祚されて齊明天皇

36

孝德天皇

こうとくてんのう

大阪磯長陵

おおさかのしながのみささぎ

大阪府南河内郡太子町大字山田

37

齊明天皇

さいめいてんのう

越智崗上陵

おちのおかのえのみささぎ

奈良県高市郡高取町大字車木

38

天智天皇

てんじてんのう

山科陵

やましなのみささぎ

京都府京都市山科区御陵上御廟野町

39

弘文天皇

こうぶんてんのう

長等山前陵

ながらのやまさきのみささぎ

滋賀県大津市御陵町

40

天武天皇

てんむてんのう

檜隈大内陵

ひのくまのおおうちのみささぎ

奈良県高市郡明日香村大字野口

41

持統天皇

じとうてんのう

檜隈大内陵

ひのくまのおおうちのみささぎ

奈良県高市郡明日香村大字野口

42

文武天皇

もんむてんのう

檜隈安古岡上

ひのくまのあこのおかのえのみささぎ

奈良県高市郡明日香村大字栗原

43

元明天皇

げんめいてんのう

奈保山東

なほやまのひがしのみささぎ

奈良県奈良市奈良阪町

44

元正天皇

げんしょうてんのう

奈保山西陵

なほやまのにしのみささぎ

奈良県奈良市奈良阪町

45

聖武天皇

しょうむてんのう

佐保山南陵

さほやまのみなみのみささぎ

奈良県奈良市法蓮町

46

孝謙天皇

こうけんてんのう

重祚されて稱徳天皇

47

淳仁天皇

じゅんにんてんのう

淡路陵 あわじのみささぎ

兵庫県南あわじ市賀集

48

稱德天皇

しょうとくてんのう

高野陵

たかののみささぎ

奈良県奈良市山陵町

49

光仁天皇

こうにんてんのう

田原東陵

たはらのひがしのみささぎ

奈良県奈良市日笠町

50

桓武天皇

かんむてんのう

柏原陵

かしわばらのみささぎ

京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎

51

平城天皇

へいぜいてんのう

楊梅陵

やまもものみささぎ

奈良県奈良市佐紀町

52

嵯峨天皇

さがてんのう

嵯峨山上陵

さがのやまのえのみささぎ

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京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町

53

淳和天皇

じゅんなてんのう

大原野西嶺上陵

おおはらののにしのみねのえのみささぎ

京都府京都市西京区大原野南春日町

54

仁明天皇

にんみょうてんのう

深草

ふかくさのみささぎ

京都府京都市伏見区深草東伊達町

55

文德天皇

もんとくてんのう

田邑陵

たむらのみささぎ

京都府京都市右京区太秦三尾町

56

淸和天皇

せいわてんのう

水尾山陵

みずのおやまのみささぎ

京都府京都市右京区嵯峨水尾清和

57

陽成天皇

ようぜいてんのう

神樂岡東陵

かぐらがおかのひがしのみささぎ

京都府京都市左京区浄土寺真如町

58

光孝天皇

こうこうてんのう

後田邑陵

のちのたむらのみささぎ

京都府京都市右京区宇多野馬場町

59

宇多天皇

うだてんのう

大内山陵

おおうちやまのみささぎ

京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷

60

醍醐天皇

だいごてんのう

後山科陵

のちのやましなのみささぎ

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京都府京都市伏見区醍醐古道町

61

朱雀天皇

すざくてんのう

醍醐陵

だいごのみささぎ

京都府京都市伏見区醍醐御陵東裏町

62

村上天皇

むらかみてんのう

村上陵

むらかみのみささぎ

京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷

63

冷泉天皇

れいぜいてんのう

櫻本陵

さくらもとのみささぎ

京都府京都市左京区鹿ヶ谷法然院町,鹿ヶ谷西寺ノ前町

64

圓融天皇

えんゆうてんのう

後村上陵

のちのむらかみのみささぎ

京都府京都市右京区宇多野福王子町

65

花山天皇

かざんてんのう

紙屋川上陵

かみやがわのほとりのみささぎ

京都府京都市北区衣笠北高橋町

66

一條天皇

いちじょうてんのう

圓融寺北陵

えんゆうじのきたのみささぎ

京都府京都市右京区竜安寺朱山  竜安寺

67

三條天皇

さんじょうてんのう

北山陵

きたやまのみささぎ

京都府京都市北区衣笠西尊上院町

68

後一條天皇

ごいちじょうてんのう

菩提樹院陵

ぼだいじゅいんのみささぎ

京都府京都市左京区吉田神楽岡

69

後朱雀天皇

すざくてんのう

圓乘寺陵

えんじょうじのみささぎ

京都府京都市右京区竜安寺朱山  竜安寺

70

後冷泉天皇

ごれいぜいてんのう

圓教寺

えんきょうじのみささぎ

火葬塚

京都府京都市右京区竜安寺朱山  竜安寺

71

後三條天皇

ごさんじょうてんのう

圓宗寺陵

えんそうじのみささぎ

京都府京都市右京区竜安寺朱山  竜安寺

72

白河天皇

しらかわてんのう

成菩提院陵

じょうぼだいいんのみささぎ

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京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町

73

堀河天皇

ほりかわてんのう

圓教寺

ちのえんきょうじのみささぎ

京都府京都市右京区竜安寺朱山  竜安寺

74

鳥羽天皇

とばてんのう

安樂壽院陵

あんらくじゅいんのみささぎ

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皇后璋子は、花園西陵

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京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町

75

崇德天皇

すとくてんのう

白峯陵

しらみねのみささぎ

御廟は、京都東山にあり

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香川県坂出市青海町

76

近衞天皇

このえてんのう

安樂壽院南陵

あんらくじゅいんのみなみのみささぎ

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京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町

77

後白河天皇

ごしらかわてんのう

法住寺

ほうじゅうじのみささぎ

京都府京都市東山区三十三間堂廻り町

78

二條天皇

にじょうてんのう

香隆寺陵

こうりゅうじのみささぎ

京都府京都市北区平野八丁柳町

79

六條天皇

ろくじょうてんのう

清閑寺

せいかんじのみささぎ

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京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町

80

高倉天皇

たかくらてんのう

清閑寺

のちのせいかんじのみささぎ

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京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町

81

安德天皇

あんとくてんのう

阿彌陀寺陵

あみだじのみささぎ

山口県下関市阿弥陀寺町

82

後鳥羽天皇

ごとばてんのう

大原陵

おおはらのみささぎ

京都府京都市左京区大原勝林院町

83

土御門天皇

つちみかどてんのう

金原陵

かねがはらのみささぎ

京都府長岡京市金ヶ原金原寺

84

順德天皇

じゅんとくてんのう

大原陵

おおはらのみささぎ

京都府京都市左京区大原勝林院町

85

仲恭天皇

ちゅうきょうてんのう

九條陵

くじょうのみささぎ

京都府京都市伏見区深草本寺山町

86

後堀河天皇

ごほりかわてんのう

觀音寺陵

かんおんじのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

87

四條天皇

しじょうてんのう

月輪陵

つきのわのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

88

後嵯峨天皇

ごさがてんのう

嵯峨南陵

さがのみなみのみささぎ

京都府京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町  天竜寺内

89

後深草天皇

ごふかくさてんのう

深草北陵

ふかくさのきたのみささぎ

京都府京都市伏見区深草坊町

90

龜山天皇

かめやまてんのう

龜山陵

かめやまのみささぎ

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京都府京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町  天竜寺内

91

後宇多天皇

ごうだてんのう

蓮華峯寺陵

れんげぶじのみささぎ

京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町

92

伏見天皇

ふしみてんのう

深草北陵

ふかくさのきたのみささぎ

京都府京都市伏見区深草坊町

93

後伏見天皇

ごふしみてんのう

深草北陵

ふかくさのきたのみささぎ

京都府京都市伏見区深草坊町

94

後二條天皇

ごにじょうてんのう

北白河陵

きたしらかわのみささぎ

京都府京都市左京区北白川追分町

95

花園天皇

はなぞのてんのう

十樂院上陵

じゅうらくいんのうえのみささぎ

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京都府京都市東山区粟田口三条坊町

96

後醍醐天皇

ごだいごてんのう

塔尾陵

とうのおのみささぎ

 

後醍醐天皇の次の北朝初代光厳天皇の髪塔が京都嵐山にあり

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奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾  如意輪寺内

97

後村上天皇

ごむらかみてんのう

檜尾陵

ひのおのみささぎ

大阪府河内長野市寺元  観心寺

98

長慶天皇

ちょうけいてんのう

嵯峨東陵

さがのひがしのみささぎ

京都府京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町

99

後龜山天皇

ごかめやまてんのう

嵯峨小倉陵

さがのおぐらのみささぎ

京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町

100

後小松天皇

ごこまつてんのう

深草北陵

ふかくさのきたのみささぎ

京都府京都市伏見区深草坊町

101

稱光天皇

しょうこうてんのう

深草北陵

ふかくさのきたのみささぎ

京都府京都市伏見区深草坊町

102

後花園天皇

ごはなぞのてんのう

後山國陵

のちのやまくにのみささぎ

分骨:般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)

京都府京都市右京区京北井戸町丸山  常照皇寺内

103

後土御門天皇

ごつちみかどてんのう

深草北陵

ふかくさのきたのみささぎ

分骨:般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)

京都府京都市伏見区深草坊町

104

後柏原天皇

ごかしわばらてんのう

深草北陵

ふかくさのきたのみささぎ

京都府京都市伏見区深草坊町

105

後奈良天皇

ごならてんのう

深草北陵

ふかくさのきたのみささぎ

分骨:般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)

京都府京都市伏見区深草坊町

106

正親町天皇

おおぎまちてんのう

深草北陵

ふかくさのきたのみささぎ

京都府京都市伏見区深草坊町

107

後陽成天皇

ごようぜいてんのう

深草北陵

ふかくさのきたのみささぎ

京都府京都市伏見区深草坊町

108

後水尾天皇

ごみずのおてんのう

月輪陵

つきのわのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

109

明正天皇

めいしょうてんのう

月輪陵

つきのわのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

110

光明天皇

ごこうみょうてんのう

月輪陵

つきのわのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

111

後西天皇

ごさいてんのう

月輪陵

つきのわのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

112

靈元天皇

れいげんてんのう

月輪陵

つきのわのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

113

東山天皇

ひがしやまてんのう

月輪陵

つきのわのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

114

中御門天皇

なかみかどてんのう

月輪陵

つきのわのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

115

櫻町天皇

さくらまちてんのう

月輪陵

つきのわのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

116

桃園天皇

ももぞのてんのう

月輪陵

つきのわのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

117

後櫻町天皇

ごさくらまちてんのう

月輪陵

つきのわのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

118

桃園天皇

ごももぞのてんのう

月輪陵

つきのわのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

119

光格天皇

こうかくてんのう

後月輪陵

のちのつきのわのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

120

仁孝天皇

にんこうてんのう

後月輪陵

のちのつきのわのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

121

孝明天皇

こうめいてんのう

後月輪東山陵

のちのつきのわのひがしのみささぎ

京都府京都市東山区今熊野泉山町  泉涌寺

122

明治天皇

めいじてんのう

伏見桃山陵

ふしみのももやまのみささぎ

京都府京都市伏見区桃山町古城山

123

大正天皇

たいしょうてんのう

多摩陵

たまのみささぎ

東京都八王子市長房町  武蔵陵墓地

124

昭和天皇

しょうわてんのう

武藏野陵

むさしののみささぎ

東京都八王子市長房町  武蔵陵墓地

 

島原散策② 角屋、歌舞練場跡碑、伊藤軒

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角屋。いつみてもこの見事な景観は素晴らしいですね。

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久坂玄瑞審議の角屋

幕末、西郷隆盛久坂玄瑞などの勤皇の志士たちが、角屋で尊王攘夷運動の密議を重ねたところでもあります。

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新選組刀傷の角屋

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井戸

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新選組の刀傷

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おくどさん

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西郷隆盛が行水に使用したたらい

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帳場

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刀箪笥

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刀掛

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主庭と臥龍

お客様はまずここに通されて、庭を見て和歌を楽しみ、そのあと茶室でお茶をいただき、それから宴会・・という流れで数時間もここで過ごされたそうです。

茶室は3つあり、庭の美見て前に、表千家宗匠覚々斎好みの「曲木亭」、その後ろに茅葺で藪内竹心門の安富常通清隠斎が建てたものを移築した「清隠斎茶席」、そして左側に表千家宗匠了々斎好みの「囲いの間」があります。

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松の間

角屋一の大座敷で四十三畳。大正14年(1925)に消失して再建したもの。

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襖絵「金地桐に鳳凰図」も美しい・・。

幕末頃の絵師岸連山筆のもの

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衝立

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絵よりも、台座や枠の400年前の琉球螺鈿が貴重!

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この向こうがお庭なのだけど、閉めていても素敵です。

格子が美しいですね。

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網代の間

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もちろん天井が網代です。

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冷蔵所

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歌舞連場跡記念碑

明治6年(1873)上之町に島原女工場として開設され、青柳踊や温習会が上演されていたが、同14年頃には衰微を極め、青柳踊も頓挫した。その後景気の回復により、太夫道中が再興され、歌舞練場が常にその巡行の拠点としての役割を果たしていた。しかし、当初の歌舞練場は狭隣にして、かつ貸座敷組合事務所との共用であったため、昭和2年(1927)に中之町の現在地に移転し、本格的な劇場施設として新築された。それ以来、この新歌舞練場は歌舞会にあたる養柳会が運営にあたり、歌舞音曲の練習発表の場として、毎年温習会が開催された。戦後の同22年以降は島原賃席お茶屋業組合の事務所としても使用されてきたが、平成8年(1996)同組合の解散に伴い歌舞練場を解体し、歌舞練場百二十余年の歴史を閉じることとなった。

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島原大門をまっすぐ東に行くと、伊藤軒があります。

こちらの名物が太夫最中。

注文してから最中にあんを詰めてくれるので、最中もサクサクです。

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島原散策① 島原大門、輪違屋

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島原は京都駅からほど近いところにあります。

江戸時代以来栄えた花街として発展し、寛永18年(1641)官命によって島原の前身である六条二筋町から現在の孔雀野の地に移されました。その移転騒動が、九州で起きた島原の乱を思わせたところから、島原と呼ばれてきましたが、正式名は「西新屋敷」といいます。

明治以降にさびれていき、現在では揚屋の「角屋」と置屋の「輪違屋」、島原入口の「大門」のみがこのころの様子を残しています。

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このあたりも雰囲気があって好きです。

最初にここを知ったのは、2003年。

新選組関係で訪れました。角屋さんの2階の青貝の間が素晴らしくて、感動したことを覚えています。

それからふらっと行くことはあるんですが、角屋さんのその部屋をもう一度見たいのになかなか行く機会がなく^^; (春と秋公開、事前申し込み)

今年の「京の夏の旅 特別公開」で輪違屋が対象になっていたので、これはいかなければ!

角屋さんの写真も撮りなおしたかったんです。

 

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「大夫や芸子をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688-1704)の創業と伝える。

現在の建物は安政4年(1857)に再建されたといわれるが、その後増改築がなされて、明治4年(1871)にほぼ現在あの姿になっていた。

平面構成は複雑だが、大きく分ければ、一階南半分の居室部分と、一階北半分及び二階を占める客室部分からなる。客室は全部で十数室あり、なかでも二階の傘の間と紅葉の間が主要な座敷で、その襖や壁の斬新な意匠には目を見張るものがある。輪違屋は建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、昭和59年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。」

 

ちなみに現在も営業されています。

よく遊郭と勘違いされますが、花街は、歌や舞を伴う遊宴の街で、昔は子が母を連れて来たりもしたそうです。

太夫は、歌舞音曲、茶、花、和歌、俳諧など多芸で豊かな教養のある最高位で、「こったい」とも呼ばれます。「太夫道中」は揚屋の客から招かれて、置屋から出向くためのもので、禿や引舟を引き連れて、内八文字で歩きます。

かんざしを前左右に6本もさし、帯は前結びで「心」という字に結びます。頭だけで5-6kg、着物など含めると、全身で30kgはあるらしく、舞妓さんたちみたいには早々歩けないですよね・・。

一度くらいは見たいんですけどね。

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この紋がまたおしゃれですよね。

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1階は写真撮影OKなんです。

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養花楼と書いてあります。創業当時の名前になります。

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坪庭は、柱を建てずに広々と見せています。

この景観は素晴らしい。

そして天井の柱は一本杉!これまた見事です。

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かわいらしい灯籠ですね。

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襖には大夫が書いたお返事の下書きが貼ってあります。

達筆すぎてまったく読めない・・。

説明では恋文と言っていましたがw

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新選組組長近藤勇の書を屏風に仕立ててあります。

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よしの大夫の書

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マリア燈籠

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これ、どこの部分だと思いますか?

天井の柱の一部です。なんだかこれだけでおしゃれに見えます。

 

二階は写真撮影禁止になります。

京の夏の旅のパンフレットの表紙にもなっている傘の間は、襖に大きな銀箔の無地に道中傘の紙を貼りこんだものになっています。桂小五郎筆の掛け軸もあります。

 

そして紅葉の間は、本物の紅葉を塗りこんで乾燥後に取り出し、そこへ原料などで着色したもので、本当に紅葉が壁に埋められているかのような細やかさで圧倒されます。

 

そして太夫の間は、太夫の控の間で、太夫の打掛が掛けられていました。