烏丸丸太町を東に行くと、京都御苑の堺町御門が見えてきます。
この門の向こう、東側に公家の鷹司邸、西側に九条邸がありました。
文久3年(1863)、薩摩藩と会津藩による「八月十八日の政変」が勃発。これによって、長州藩は堺町御門警護の役を解任されてしまいます。
蛤御門の変では、長州の久坂玄瑞率の部隊が、この堺町御門から攻め入り、鷹司邸に立てこもりました。そして、屋敷に火を放たれ、逃げ場を失った久坂ら長州藩士は自害しました。
ちらっと遠目に桜を見つつ・・今回は通り過ぎました。
丸太町寺町を南にいくと、すぐのところに、「横井小楠殉節の地」という碑があります。
横井小楠(よこいしょうなん)は、熊本藩士で、維新十傑のひとりです。
坂本竜馬とも交流があった人なのですね~。
明治2年(1869年)1月5日、御所参詣の帰り道に、この地で十津川郷士らに暗殺されました。
丸太町寺町南側に下御霊神社があります。
案内板によると
「平安初期の貞観5年(863)に神泉苑で行われた御霊会で祀られた崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六座に、吉備聖霊と火雷天神を加えた八座、すなわち八所御霊を出雲路(上京区)の地に奉祀したのが始まりです。
いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で、疫病流行や天変地異はこ怨霊によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られました。
当所、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社とよばれるようになったといわれ、以後社地を転々とし、天正18年(1590)に豊臣秀吉の産土神として崇敬され、享保年間(1716~1736)に霊元天皇が行幸し、震筆の祈願文を収めています。本殿は寛政3年(1791)に仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は旧建礼門を移したものといわれています。境内の垂加社には、江戸時代の神道家、山崎闇斎を祀っています。」
この手水は地下水です。
江戸時代の明和7年(1770)の秋、京都市中が干ばつに見舞われました。
当時の神主が、夢のお告げにより境内を彫らせたところ、水が湧き出て、万人に汲ませることができ、「感応水(かんのうすい)」と名付けられました。井戸の痕跡はありませんが、今もその時と同じ水脈だそうです。
仮皇居の聖護院宮にて造営された賢所(内侍所)を御下賜になったものです。賢所とは皇位継承の御証である八咫鏡の別怨霊(御鏡)が奉斎され皇祖天照大御神をお祀りしています。
現在も宮中の賢所に鎮祭されている御鏡が、仮とはいえしばらくは祀られていた御殿です。
このような例は、藤森神社、上下御霊社、橿原神宮のみです。」
本殿八座
吉備聖霊(きびのしょうりょう)
崇道天皇(すどうてんのう) 皇太子 早良親王(さわらしんのう) 桓武天皇同母御弟
伊豫親王(いよしんのう) 桓武天皇皇子
藤原大夫人(ふじわらのだいふじん) 桓武天皇夫人 伊豫親王御母 藤原吉子
藤大夫(とうだいぶ) 藤原廣嗣(ふじわらひろつぐ)
橘大夫(きつだいぶ) 橘逸勢(たちばなはやなり)
文大夫(ぶんだいぶ) 文屋宮田麻呂(ぶんやみやたまろ)
火雷天神(からいのてんじん)
相殿一座
霊元天皇(れいげんてんのう)
本殿、幣殿、拝所、南北廊、拝殿。
これらが屋根をそれぞれ交錯させて一連の内部空間をつくる特異な社殿構成は、市内の御霊社に特有のものだそうです。
天保年間に架かれた祭礼絵図。
剣鉾祭りですね。
明治になるまでは、7月18日(旧暦)が御輿迎(神幸祭)、8月18日(旧暦)が御霊祭(還幸祭)だったそうです。
これを今年こそ見たいんですよね。
安永9年(1780)に発行された「都名所図会」。
末社が今と少し違っています。
神物寳庫。
これは神輿や祭具を保管する蔵です。
土蔵は扉を閉めることで火災を免れ、貴重なものが無事でした。
もともとは宝永の大火後に建てられたと思われますが、当時の境内絵図とは異なるため、天明の大火後に社殿造営に伴い、今の位置に移築したと考えられています。
五座相殿社
大国主社。
天満宮。
建物が傾いているのが気になります・・。
稲荷社
左 春日社 祭神 春日大神
宗像社
下御霊神社のすぐ南には革堂(行願寺)があります。
ずいぶん前に洛陽三十三箇所、西国三十三か所巡りで行ってから、行ってなかったなぁと思って、久しぶりによってみました。
寛弘元年(1004)に行円商人によって一条小川に創建されました。
子をはらんだ母鹿を射止めてしまったことを悔いた上人が、
常にその皮をまとって鹿を憐み、人々から皮聖と呼ばれていたことから革堂(こうどう)と呼ばれるようになったといわれています。
度々の火災で、寺地を転々とし、宝永5年(1708)の大火の後、この地に移されました。
愛染堂(奥に寿老人堂)
下御霊神社にあった「都名所図会」にも載っていますね。
正面は、鎮宅霊符神堂。
七福神像
鐘楼
加茂大明神
これも、下御霊神社にあった「都名所図会」にも載っていますね。