京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

新熊野神社(いまくまのじんじゃ) 左義長神事(さぎちょうしんじ)

 

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左義長は、平安時代の宮中行事が起源です。

宮中では元旦早朝の「四方拝(しほうはい)」に始まり、14日まで正月行事がありました。嵯峨天皇の時代から、元旦から7日までを神道祭祀で、7日から14日までを仏教祭祀で行うようになりました。

1月15日の小正月に行われたのが左義長神事で、神仏習合の神事です。

宮中の清涼殿東庭に青竹を束ねて建て、毬杖(ぎっちょう)三本を結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡い囃しながらこれを焼いたとあり、櫓が倒れた方向や炎の上り方によって、その年の吉凶を占ったとされています。毬杖を三本結ぶことから三毬杖(さぎちょう)と呼ばれました。今は、正月に飾った門松やしめ飾り・書き初めを櫓に組んで焼却します。

 

聖護院の初代宮門跡が後白河法皇の第9皇子、静恵法親王だったことから、鎌倉時代以降、聖護院門跡が紀州熊野三山と京都の新熊野神社の検校(けんぎょう)を兼ねるようになって、応仁の乱まで関係は続きました。熊野といえば修験道、熊野山伏の総支配が聖護院だったことから、今も密接な関係があります。

 

2時間前に着いたら・・さすがに早すぎました。神社をゆっくりと回って、あとは準備を見守っていました。10時半頃には人だかりができていました。

10時45分頃、聖護院の山伏たちが櫓の下に灯油を撒きました。さすがに灯油を入れないと燃えないそうです。

 

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11時から神事が始まります。

まず、宮司から神事の説明がありました。この宮司のトークがとてもおもしろくてよかったです。

神事の際、杖を持って先頭に立つ人を儀仗兵(ぎじょうへい)といいますが、左義長は、左儀仗、どんと焼きと言ったりもします。

祝詞に、「筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわきはら)に」

という言葉があり、これはイザナギが禊祓をしたという話です。

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ここには川がないため、水の代わりに白い半紙を水に見たて、それに塩を混ぜて禊の代わりとするそうです。

なぜ食べ物でないものがお供えしてあるのかと思っていたら、そういうことかと納得。

 

まず、本殿で法要がありました。見ておりませんが、巫女が笛や太鼓の音とともに舞っていたようです。鈴の音も聞こえてきました。この時は本殿の中に入れるようになっていたので、またこちらも見てみたいですね。

 

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そのあと、禊をし、お祓いがありました。

この禊とお祓いも、宮司さんが参拝者全員に順番にしてくれます。

「もう罪ある人いない~?」と聞いて、2度目の禊もあったり。

最後の塩は宮司本人の頭にかけ、「これが大事やねん」と(笑)

吉凶を占う陰陽師の役目は参拝者自身だとも。

 

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そして、雅楽の演奏、祝詞奏上とつづきます。

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そして、山伏が櫓に点火し、ほら貝を吹き、般若心経を唱えます。

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般若心境は参拝者にもコピーを頂けますので、一緒に唱えました。

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火はあっという間に全体に広がり、激しく「パーン」と木の割れるような音もしました。

その年の恵方に倒されるのですが、今年は東北の方角に倒れましたので・・あまりよくないそうです^^;

 

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参拝者たちは、玉串を奉納し、お神酒とお下がりを頂きます。

このお下がりは本来は、おぜんざいの接待を受けるのですが、今年は9日(成人式の日に行われるため)と早かったので、準備ができず鏡餅のお下がりだそうです。

 

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頂いたお餅。早速焼いて頂きました。

 

―おまけー

 

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撮影した炎が・・手の形に見えてゾーッ。

悪い“気”を吸った正月の飾り物たちの、最後の断末魔のように見えました。

くわばらくわばら・・。

 

寒いからと、たき火のように当たっている人もいましたが・・それは違うだろう・・と言いたかった^^;

やはりこれは成仏を祈る神事だと感じました。

こういう神仏習合の行事はなかなか興味深いですね。

新熊野神社(いまくまのじんじゃ)

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熊野神社に行ってきました。こちらも久しぶりです。

ちゃんと全部を見たことがなかったです。

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創建当時、熊野神社をそっくりそのまま作ろうとして中州に作ったんですね。びっくり。

 

由緒書きより抜粋

「永暦元年(1160)、後白河上皇によって創建。

後白河天皇(第77代)は1155年に即位され、1158年に退位されたが、退位後も院政を敷かれ、その時のお住まいが三十三間堂の東側にある法住寺です。当時は法住寺殿と呼ばれ、その鎮守社として創建されたのが、新熊野神社、鎮守寺として貢献されたのが三十三間堂です。

鳳凰は一生のうちに34回参詣されましたが、当時熊野に参詣するのは大変なことでした。そこで熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、京の熊野信仰の中心地として栄えました。当社が「新熊野」と書いて、「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野にに対する今の熊野という当時の都人の認識が由来となっています。

当社はその後、350年間に渡って繁栄を極めましたが、応仁の乱以降、度々戦火に見舞われ、その後120年間は廃絶同様の状態となっていました。それを再建されたのが、江戸時代初期、後水尾天皇の中宮東福門院(3代将軍徳川家光の妹)で、現在の本殿は寛文13年(1663)聖護院宮道寛親王後水尾上皇の皇子)により造営されました。」

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後白河上皇の命を受けた平清盛は、熊野の土砂や材木を用いて社域や社殿を築き、那智の浜の青白の小石を敷いて霊地熊野を再現したとされています。足利義満が初めて観阿弥世阿弥父子の能を見た場所としても知られています。

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熊野本宮八葉曼荼羅を元にした世界が、境内全体を使って構成されているのだそう。そして、境内を散策することで熊野詣と同様の御利益が得られるのだとか。

 

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参拝順路が丁寧に書かれています。

本殿→上之社→中之社→京の熊野古道→若宮社→下之社→樟社でお参りしました。

 

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本殿

祭神:伊邪那美(いざなみ)

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本殿の屋根には八咫烏がいました。

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梛の木

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熊野神社は、梛の宮ともいわれ、梛(椥とも書く)の名所です。

 藤原定家は「千早振る 遠つ神代の 梛の葉を 切りに切りても 祓いつるかな」と詠っているように、ナギは罪穢、災禍、病魔などをナギはらう霊験があると信じられ、熊野詣などには道中の安全のお守りとしていました。またナギは朝凪、夕凪のナギから安全・無事を守り、平和と幸福を招来する霊樹といわれています。

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上之社

祭神:速玉之男大神(はやたまのをのおおかみ/薬師如来

     伊弉諾尊(いざなぎのみこと)

   熊野家津御子大神(くまのけつみこのおおかみ/阿弥陀如来

     素戔嗚尊(すさのをのみこと)

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中之社

祭神:天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと/地蔵菩薩

   瓊瓊杵尊(ににぎのみこと/龍樹菩薩)

   彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと/如意輪観音

   鵜茅草不合尊(うかやふきあえずのみこと/聖観音

 

 

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一瞬本当に熊野古道に繋がっているのかと考えてしまいました。

そんなわけないですね^^;

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(神)稲葉根王子(いなばねおうじ/稲荷神)

稲葉根王子は稲荷神とも、稲荷神の姿をした金剛童子だとも言われています。稲荷神は東寺の守護神で伏見稲荷大社の御祭神です。

(仏)荼枳尼天(だいきにてん)

荼枳尼天は、自由自在の通力を有し、六か月前に人の死を知り、死ぬまでその人を加護する仏のこと。稲荷の狐は、荼枳尼天の乗り物に由来します。

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梵字曼荼羅

八葉の諸仏、諸菩薩を梵字に置き換えたもの

熊野本宮八葉曼荼羅

上部に「役行者と八大童子」、中央に熊野十二所権限を始めとする熊野の神々が仏の姿で、下部は五体王子(藤代王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子)を始めとする熊野の諸王子が、描かれている。

 

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熊野曼荼羅

 熊野本宮八葉曼荼羅を元に作成したもの。

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(神)滝尻王子、(仏)帝釈天

滝尻王子は、聖域熊野の入り口を守護する神

帝釈天はインドラの中国語訳で、ヒンドゥー教の神。雷を操る雷神で、阿修羅と戦ったことから武勇の神。

(神)発心門王子、(仏)梵天

発心門王子は、人々を熊野信仰の世界に導く案内神

梵天はプラフマーの中国語訳で、ヒンドゥー教の神。ヴィシュヌ・シヴァと並ぶヒンドゥー教の最高神で宇宙の創造神。

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八咫烏

日本神話に登場する三本足のカラスで、神武天皇を樫原宮(即位された場所)に導いた熊野の神の化身。

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後白河法皇坐像

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(神)制多迦童子(せいたかどうじ)

(神)弥部渡能売神(みずはのめのかみ)、(仏)不動明王

(神)矜羯羅童子(こんがらどうじ)

高尾の神護寺を再興した高僧、文覚上人が那智の滝であまりの荒行に息絶えたのを蘇らせたのが、制多迦童子と矜羯羅童子で、不動明王の守護を得て、その後も全国の霊地で修業を重ねた。

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熊野三山

那智の滝(御神体 滝) 熊野那智大社

大斎ケ原(御神体 川) (旧)熊野本宮大社

神倉山・ごとびき岩(御神体 岩) 熊野速玉大社 元宮

本宮は熊野川と音無川が合流する地点の中州にあった。そこを大斎原(おおみのはら)というが、明治22年の洪水で社殿が流出したため、現在地に移築された。大斎原の入り口には現在でも日本一の大鳥居が建っている。那智山一帯には大小60余の滝があり、そのうち48滝(那智48滝)が滝篭修行の行場として使われていた。もともとはこの48滝を総称して那智の滝と呼んでいたが、現在はこのうち一の滝(那智大滝)を那智の滝と呼んでいる。

速玉を新宮というが、これは熊野の新宮ではなく、もともとは熊野川の河口、神倉山の山頂にあった。神倉神社が速玉の本宮、それが現在地に下りてきたため新宮と呼ばれるようになった。

 

なるほど・・。これを踏まえて熊野にお参りしたいですね。

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若宮社 

祭神:天照大神(あまてらすおおみかみ/十一面観音)

下之社

稚産霊神(わくむすびのかみ/釈迦如来穀物の神

軻遇突知神(かぐつちのかみ/文殊菩薩普賢菩薩)火の神

埴山姫神(はにやまひめのかみ/毘沙門天)土の神

弥都波能売神(みずはのめのかみ/不動明王)水の神

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何も書いてなかった・・

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(神)軻遇突知神、(仏)文殊菩薩

(神)埴山姫神、(仏)毘沙門天

(神)軻遇突知神、(仏)普賢菩薩

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花の窟神社(はなのいわとじんじゃ)

熊野市有馬にあるイザナミ命の埋葬地・日本最古の神社

春と秋に例大祭が行われ、その時には長さ170mの注連縄が張られ、そこに季節の花や果物、扇などが吊り下げられる。

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(神)樟大権現、(仏)樟龍弁財天(しょうりゅうべんざいてん)

樟は樹齢900年と推定されています。

弁財天はもともとはヒンドゥー教の川の神。

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樟龍弁財天

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中にも入れます。後白河上皇御手植えの大樟。京都市の天然記念物にもなっており、木の周りをぐるっと一周できます。

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東寺 御七日御修法(ごしちにちみしほ)

8日から14日までの7日間、「後七日御修法」が行われます。千百年以上も宮中で行われていた行事で、正月行事として、1日~7日を神事、8日~14日を、仏事で営んでいました。

空海が835年(承和2年)に行なったとされ、国家行事としていましたが、廃仏毀釈の影響で廃止されました。そして明治16年に東寺で再興されました。この「後七日御修法」は、真言宗の最高の儀式といわれ、今はこの東寺だけで行われています。

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8日11時半頃、勅使から天皇の御衣が本坊へ届けられます。その際、本坊の南側の小子坊(天皇をお迎えする場所)の勅使門が開きます。この勅使門は普段閉じられており、この時だけ開きます。

 

数年前に見に行ったときに、この時間に行けなかったので、ようやく見に行けました!(アップしていないので、またいつか遡ってアップしたいと思います。)

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11時35分頃、お坊さんたちが勅使を出迎えに出てこられました。

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勅使の方は車で、勅使門前まで乗り付けられ、天皇の御衣を持って、中に入って行かれました。

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11時50分頃、お坊さんたちと勅使が出てこられました。

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唐櫃です。先ほどを御衣をこれに収めて、灌頂院へ運んで安置されます。

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灌頂院

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そんなに距離があるわけではないので、12時少し前くらいに到着。

入って行かれると、報道関係者も中に入って行かれてびっくり。

安置される様子を撮影していたようです。

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12時5分頃に出てこられました。

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勅使門へ戻ってきました。

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12時15分頃、今度は本坊から灌頂院へ、真言宗各派の高僧15人が灌頂院へ向かいます。

そして、7日間21座(1日3座×7日)にわたって、国家安泰や五穀豊穣を祈願します。 秘法のため見ることはできませんが、期間中の 6時、10時半、13時半に、本坊から灌頂院へ、そして法要後灌頂院から本坊へ向かう列を参拝することができます。

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雨が降っていたので、全員が朱傘を差しかけられていて、壮観です。

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本坊前にもお坊さんがずらり。

各地域から来られた方々でしょうか。こちらもなかなかの壮観。

 

勅使門のところだけ見るつもりが、結局1時間滞在・・。

11時勅使到着と書いてあるところもあって、念のため10時半過ぎに着いたので、待ち時間入れると2時間も外にいました。

さすがに寒かった・・。

黒い“気”の記録 2017

去年になんとなく記録していたら、結構増えてしまったので、

2017年度版を作りました。ちなみに霊は信じていませんよ。見えませんし。あくまでも感じるだけです。

 

2017.01.07 土曜日

今日のはきつかった、激しかった。御香宮の東北角にある神社が気になって、つい調べてしまいました。豊国社とあるけど、猿田社じゃないのかなあとと。拝殿に掲げられていた絵馬にそう書かれていて、あれっ?と。

他に猿田社が見つからなかったし、ここだけ参道がやたら曲がってたから。

(安らかにお眠りください。あなたの存在を知ってもらうために調べてます。写真撮らせていただきますね、すみません。)

といつも祈ってから撮影してるんですが、それで付け込まれて、ついてきちゃうのかなあ(^^;;

 

今日はまっすぐの状態で、右に左にシーソーのように揺れ、そのあとは硬直。何度も黒い気が私の胸をめがけて飛び込んで来ようとするので、胸あたりに手を組んでガードしてました。そして、来んな、来んなと思い、腕を掴まれていたので、それを振りほどこうともしたけど、その強い力に負けそうになりました。「臨兵闘者皆陳列在前」と二回唱えたけど効果なかった。

起きたら2時20分。いつもそのくらいになると、さーっと引くから、何かあるのかなあ。今回起きる直前は普通の夢になった。

それにしても強かった。なんか黒い気も巨大だった。東寺の竜巻のより大きかった。暴風って感じ。腕を掴んでる上に飛び込んでくるんですもん。長かったなあ。大蛇みたいな感じ。まだ心臓もバクバクしてる。ダメだな、神社行く時は塩も持参した方がよいか(^^;;

 

→朝起きたら、肩がずっしりと重くて、頭痛までしました。金縛りで緊張して、張ってしまったのでしょう。マッサージに行ったら、全身すごく張ってるといわれてしまいました。

 

 2017.1.17火曜日

今日の夢は黒い気ではなかった。時間も朝方だった。

天井からボタっと頭に何か落ちてきた。

両手で摑めるくらいの水溜りのようなもの。透明感があったと思う。

思わず避けたら目が覚めて、6時くらいだったと思う。

すぐ二度寝してしまったから、記憶があやふや。

実際そんなものはなかったし、あれはなんだったんだろう…と一応記録に残しておこうと思う。

 

2017.2.24 金曜日

今日はどこいったとかではなく、疲れてたから集まりやすかったんだと思う。足首や手首に絡みつき、頭上を覆うように迫ってきた。

「来んな来んな」じゃ効かず、そういえばそういう厄除けにもなるアロマオイルを買ったんだったと思い、引き出しを開けました。

なぜかアロマオイルが瓶から少しずつ気化していたので、それを手で受けつつ手首や足首などにつけました。そしたらさーっと黒いのがなくなり、

 目が覚めました。時計を見たら2時2分。いつもより早い。前にもあったけど、実際手にしてなくても、夢の中で手にするだけでも効果あるのね。

アロマオイルや塩!これにはびっくりです。

今日のは、「遊んで遊んで」タイプのあまり怖くないやつでした。

 

2017.4.13 木曜日

 

きょうもどこ行ったとかではなかったけど。両手を押さえつけられてのしかかってくる感じでした。手足が動かないけど、なんとか跳ね除けようとしてました。そしたら組んでた両手を前に突き出した時に、手だけが何重にも見えて、それから金縛りが解けました。なんか前に見た気がする、両手が何重にも見えるの。

起きたら2時40分。

 

2017.4.21 金曜日

今日も神社にはいってないけど、明日に伏見に行くので、御香宮のことを少し考えてた。右手首を、強い力で逆にそらされた。反抗していたら動いた。

それから、神社に立ち入ると、境内に桜や花が咲いていて、なぜかうさぎや鹿、イノシシ、狼?なんかもいた。写真を撮ろうとカメラを出している間に、うさぎや鹿には逃げられたが、イノシシやら狼らが突進してきて、なんとか建物の二階へ逃げようとしたが、体が重くて動かなかった。でもなんとか避難して、しばらくして階下へ。ちょうど祭りをしていたらしくテントがあり、動物も一部は綱で繋がれていた。でもまた鹿が寄り付いてきたが逃げ、イノシシや狼も突進して、なんとか襲われずには済んだ。置きたら1時半だった。今日のは黒い気というよりは、疲れのような気もする。

 

2017.8.20 日曜日

今日も神社はいってない。

まだこれまでよりはまだ軽い感じの強さで、多分北側に手首を引っ張られた。

心の中で、なぜか「アーメン、アーメン」と唱え、

これはあかんと、「臨兵闘者皆陳列在前」と2-3回唱えてた。

金縛りが解けて起きたら1時16分だった。

 最近なかったから、油断してた。

御香宮神社(こごうのみやじんじゃ)③ 摂社・末社、伏見の戦跡、伏見城跡の残石、伏見義民事蹟、黒田節誕生の地

何度も来てるけど・・本殿の奥って行ったことがなかった!

歴史ツアーとか、十六社巡りとか・・そういうのがほとんどだったので、全体を見ていなかったことに気づき、回ってみることにしました。

本殿西から時計回りです。

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稲荷社(境内図には菊姫と書いてありました)

何も書いていませんが、祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)でしょうね。

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弁天社

池があり、橋が渡されてその向こうにあります。

ただ、入ることはできず、橋の手前からお参りします。

こちらも何も書いていませんが、祭神は祭神:市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)でしょうね。

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松尾社

もちろん 祭神は、大山衹神(おおやまつみのかみ)

お酒の神とあって、彫刻もユニーク。

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東照宮

祭神は徳川家康

屋根にはしゃちほこが乗っており、本殿も鮮やかな彩色がされていました。

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南を向くと・・折れ曲がった道。右側には先ほどの神社が並んでいます。

これを左に行きます。

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6社

左から、金礼宮那智、熊野社、新宮、天満大神、春日大明神

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豊国社

祭神は、豊臣秀吉

ただ、拝殿正面に掲げられた奉納絵馬に、御香宮猿田社と書かれているんですよね。別ページでも、ここは猿田彦社と書いているところもありました。となると、祭神は猿田彦か・・。

ここの参道も実は手前で折れ曲がっており、徳川家康よりも厳重体制。

しかも古そうな建物。秀吉を恐れて祀っているっていうのとはちょっと違う気がしました。

 

途中まで書いて見てしまったのが、リンク先の夢。

多分、過去最大だったし、合祀されたか、もともとは猿田彦じゃないかなあと思いました。もしくは、秀吉=猿=猿田彦? としてしまったのか・・^^;

んー、そのあたりも夢で教えてくれたらいいのに。

気になる方はどうぞ。

kyotomichi.hatenablog.com

 

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伊勢社

境内図と場所が異なるのが気になります。移動させたのか?

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左から、住吉大明神、八阪社、蛭子社、八幡社

 

ん?これも境内図と異なります。

境内図では住吉、八幡、八阪、ヱビスとなっています。

札が間違ってるのかなぁ?? それとも境内図が間違えてる?

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ちなみに境内図は、京都伏見ロータリークラブ創立25周年記念と書かれています。1973年創立だから、1998年に寄贈されたのかな。

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絵馬堂

宝暦5年(1776)建立

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桃山天満宮

祭神は菅原道真

牛の親子がほのぼのw

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桃山天満宮摂社 左から、老松社、白大夫社、紅梅殿

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厳島

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大杉社

 

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伏見の戦跡

内閣総理大臣 佐藤栄作

慶應3年12月9日、王政復古が渙発せられるや、京洛の内外は物情騒然として朝幕の間に一触即発の険悪な空気が張った。ところが7日の明け方、当社の表門に徳川氏陣営と書いた大きな木札が掲げられた。祠官三木善郷は早速社人を遣わして御所へ注進すると、翌日薩摩藩の吉井孝介が来てこの札を外しここに部隊を置いた。やがて年が明けて慶應4年正月2日徳川慶喜は大軍を率いて大阪より上洛せんとし、その先鋒は翌3日の午後伏見京橋に着いた。そこでこれを阻止せんとする薩摩藩との間に小ぜり合いが起こった。その折しも鳥羽方面から砲聲が聞こえてきたので、これをきっかけに当社の東側と砲兵陣地を布いていた大山弥勒の指揮により御香宮と大手筋を挟んで、目と鼻の先にある伏見奉行所の幕軍対し砲撃を開始した。これに対し土方歳三の率いる新選組は砲撃の火ぶたを切って、応戦し、一方久保田備中守の率いる傳習隊は官軍の前衛部隊を攻撃して奇効を奏し、官軍を墨染まで撃退した。しかし翌4日軍事総裁に任じられた仁和寺宮嘉彰親王は、錦の御旗を翻して陣頭に立たれたので官軍の志気大いに賑わいそのため幕軍は淀に敗退した。一方鳥羽方面の官軍も一時苦戦に陥ったが、錦の御旗に志気を盛り返し、幕軍を淀からさらに橋本に撃退し、ついに幕軍は大阪に敗走した。」

と書かれています。

 

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伏見城跡の残石もたくさん見られます。

 

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竹田街道の車石、車道

この辺りは低湿地帯で、雨が降るとぬかるみに車輪がとられて、スムーズに通れなかったので、通りやすくするために車石を二列敷き並べたのだそうです。

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大手筋木鳥居旧基礎石

江戸時代・萬治2年(1659)紀州徳川頼信は境内入り口の大手筋に石鳥居を奉納した。寛文年間の大地震により倒壊、その後数度の建て替えを経て、明和4年(1767)に今の鳥居が奉納されました。

平成10年9月の台風により傾斜したので、解体修理を行い、柱根石を交換しました。その基礎石になります。

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伏見義民事蹟

 「天明5年(1785)、伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴し、伏見町人の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助ら7人を伏見義民という。江戸時代(1603~1867)伏見は交通の要衛として栄え、政治・経済上重要な地であったため、幕府の直轄地として奉行所が置かれた。安永8年(1779)に奉行となった小堀政方は数々の悪政を行い、住民に対する苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)は言語に絶するものがあった。文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋一右衛門、焼塩屋權兵衛の七人は、奉行の悪政に虐げられた住民の苦難を座視するに忍びず、苦心惨憺の末、天下の禁を破って幕府に直訴した。このため、天明5年(1785)政方は奉行を罷免されたが、九助ら七人も獄中で相次いで病死した。この碑は明治20年(1887)に建てられたもので碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書である。毎年5月18日には伏見義民顕彰会によって慰霊祭が執行される。」

亡くなってから100年後に建てられたんですね。

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黒田節誕生の地

「酒は飲め飲め飲むならば、日の本一のこの槍を 飲みとる程に飲むならば これぞまことの黒田節」

という福岡県の民謡があります。

 私もちょっとだけ詩吟をかじっていて、この黒田節は結構好きでした。

それもあったので、思わず足を止めてしまいました。

 

福岡藩儒学者貝原益軒著「黒田家臣伝」の母里但馬伝(もりたじまでん)に登場する逸話が元となっています。伏見桃山の地にあった戦国大名福島正則の屋敷での酒宴に、黒田家家臣の母里太兵衛(もりたへえ)が招かれたときのこと。正則は大きな鉢を杯に見立て、「これで酒を」を勧めたところ、あまりの大きさに太兵衛は断りました。しかし飲んだら望みを叶えると強いたため、太兵衛は槍を所望します。その槍は、正則が豊臣秀吉から賜った秘蔵の品。正則は勢いで承知したところ、太兵衛は見事に飲み欲し槍を持ち帰りました。後悔した正則が返してほしいと何度も使いを出したが、返してもらえませんでした。この銘槍「日本号」は別名「呑み取りの槍」とも言われ、福岡市博物館に収められています」

 

 これでも端折りながら書きましたが、見どころたくさんなんですね~。 

改めてびっくりしました。