京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

自分のルーツを辿る28 愛媛旅行24 下林 築島神社

続いて、下林の築島神社へ。

先祖とはあまり関係ありませんが、もともと拝志郷一宮の三嶋神社であったことと、古くて興味深かったのと、源頼政ゆかりのところだったから、という理由です^^;

(事前に写真とか由緒書きもチェックしています)

ehime-jinjacho.jp

頼政は京都でもゆかりのあるところが多くて、色々回ったり調べたりしていました。思い入れが強くて、しまいには短編小説まで書いてしまいました(笑)

変わった鳥居ですね。

本当に立派!上の方の紋は河野家のですね。

こういうところもよく見ると人の名前が書いてあったりします。

正面から。周囲の鳥居も撮りましたが、新しいので省略。

手水鉢をカエルが支えているのもあまり見たことないですね。

新しいですけどね。

なぜ戸川神社っていう名前なんだろうと調べてみたら、全国的にも雨乞いの神社なんですね。もともと外川とも書いていたみたいですね。場所的にも重信川の近くにあるからでしょうか。

ここの狛犬は玉乗りじゃないですね。

屋根が二重になっています。

下の方は河野家の紋ですね。

由緒書きの下の丸い石がとっても気になってしまいました。

なんなんでしょう??

中がまた素晴らしい!

陸軍大将秋山好古謹書とあります。

秋山好古(あきやまよしふる)は、1859ー1930年の人で、フランスで騎兵戦術を学び、「日本騎兵の父」とも呼ばれ、のちに現愛媛県立松山北高等学校の校長を務めているんですね。

その左も築島神社とあるので、もっと古いのかな?

昭和41年なので新しいですね。

絵を拡大したら大石内蔵助とかあったので、忠臣蔵の様子を描いたものですね

右上の絵は明治45年とあります。神社を描いたもののようですね。

正面は、昭和31年とあります。

生目神社。これも名前が気になる・・。

調べたら宮崎にある「日向の目の神様」として眼病にご利益があるとされているそうです。

もともとは生目八幡宮。伝説がまたすごい。

源氏に捕まった藤原景清は、頼朝に武勇惜しまれ赴任を命じられたけど、源氏の繁栄を見たくないと、自ら目をえぐって空に投げ捨ててこの地におちたとか、ひえっ。

まさに高田崇史氏のQEDシリーズでいう、自分で叶わなかったことを人々に叶えさせてあげようということですね。

でも、こういう意味を知ってから、叶わなかった人にそれを願うのは酷なんじゃないかと思って、願いをいうのはやめました・。

明治30年

佐古谷池神社。

これも名前が気になって。

近くに佐古池という池があるのですね。平成9年にダムになったみたいなので、そこにあった神社が移設されたのでしょうか。

小槌に米俵、大黒天でしょうか。

忠魂碑

こんなところにも鳥居が!

古そうなので気になって、階段を降りてみました。

これまた古そうな石碑です。

明治17年とありました。思ったほど古くなかった・・

裏門になるのかな

 

昭和50年

歩いていた方に山ツツジ見ました?と聞かれて、見に行ってきました。

木に屋根??

 

なかなか見ごたえのある神社でした。

自分のルーツを辿る26 愛媛旅行23 則之内 安国寺

愛媛旅行3日目は、また神社仏閣巡りです。

 

安国寺 

『川内町誌 第二部三内』P479~、P488~

 

大字 則之内一ヶ谷

寺号 萬松山安国寺
宗派 臨済宗 妙心寺

本尊 薬師如来 釈迦如来(釈迦如来は昭和三十三年に安置)
開山 智覚普明国師
由緒 聖武天皇の建立された国分寺にならって、暦応中(
1338-1341)、足利氏が国毎に一 寺を建立した。『保暦間記』には、暦応元年足利直義が、僧妙超の勧めで光厳上皇に請うて 仏舎利を頒ち、六十六か国に安国利生塔を建立させた。これを安国寺と云う。皆禅宗であ ると。又『当山の記録』では、暦応 2 足利尊氏の開基、智覚普明国師の開山で、足利氏 の祈願所として河野通盛建立すとある。

『豫陽郡郷里諺集』によると、嘉慶 2 年(1338)2 月 28 日、足利義満は安国寺へ余戸 荘(松山市)をはじめ吉原郷地頭職(和気郡)、松崎浜(松前町)を寄進している。 さらに応永 4 年(1397)10 月 18 日の河野六郎通之状によると、余戸荘内にあった大野、森 山両氏の所領を安国寺へ寄進している。

瑠璃宝殿の四字を刻んだ扁額は、鴞苑の筆といわれている。鴞苑は善応寺の名僧で、河野 弾正少弼通直が参禅した人であるという。また、仏殿中央の高机(須弥壇)は、戦同時代河野八郎の寄進されたものだという。

安国寺跡(則之内) 『川内町誌 第二部三内』P551~

大字則之内保免。足利尊氏の創建で、国家安泰の祈願道場として伊豫の国に設けられた一 国一寺。その堂塔は七堂伽藍建ちならび、境域が八町四方もあったという。門が四方にあ り、東、西、南、法界門等であった。現在法界門、乾寧院等の地名が残っている。乾寧院 には、巨松があって伊豫の巨木の番付に載る程であったが、今は見る影もない。昔の安国 寺の井戸があったが、耕作不便のため塞いでしまった(実習地は保免公民館のあるところ)

『伊豫古蹟志』(野田長裕 享和3年=1803年)によると、元和中(1615-1624)に堂舎は 壊されて山になったとある。河野対馬守通盛が三島宮を再建。河野の先祖である小乎益躬 (おちますみ)を祀り、伊与国中八社といった。 『戒能家系譜』よると、戒能家の菩提寺は安国寺で、累代の位牌があり、墓は乾寧院にあったという。〉

 

 

ということで、戒能ゆかりの寺として行ってみました。

天保3年の石灯籠

中庭もあって、広くてびっくり。

戒能の菩提寺だけど、戒能の紋とは異なりますね。

参道?

立派な門がありました。

これはなかなか見事ですね。

井戸?

シロバナタンポポ

日本に古くからあったのがこの白いたんぽぽなんだそう。

黄色のたんぽぽは西洋から来たものなんですね。

おばが教えてくれなかったら、知りませんでした。

高須賀とあったので一応撮影したもの。

自分のルーツを辿る25 愛媛旅行22 鷹ノ子 素鷲神社

さて、この日の最後に行ったのは素鷲(そが)神社です。

鷹ノ子村の氏神で、古そうだったのと、何と言っても日尾八幡神社の境外末社であり、祭神はスサノオノミコトなので、信仰心も熱いだろうということで行ってみました。

天王山と呼ばれる、古墳らしい。

右側の石碑には、米山書とあります。

三輪田米山は日尾八幡神社の神官でしたので、そのゆかりのようです。

鳥居は明治42年でした。

あ・・本殿撮ってない・・。

多分時間遅くなって16時になっていたので慌てていたのでしょうね。

牛頭天王熊野権現とありました。

読めそうで読めない・・

そして、早速親戚の名前を見つけてしまいました!

しかも2人いました。おおーっ!!

曽祖父の前妻の孫たちです。

おじさんからするといとこ?になるので、びっくりです。

そしてこっちにも3人!!

同じくその兄弟と、一人わからないから子供かな?

こっちにも2人ありました。(同じ人)

ボケてしまいましたね・・

読めない。。

ボケすぎ。。ほんとすみません。

多分、あるはずと思って、、そして執念で見つけました。(現地で)

曽祖父の名前も、前妻の長男の名前も。

夕方で、曇っていたのと、その嬉しさで舞い上がって、ボケてしまったのかもしれません。(と言い訳)

あとで合流したいとこも知らなかったので、これは良い情報でした。

多分数年後にはもっと読めなくなっているでしょうね。

 

ちなみに、こちらが詳しく書かれていました。

社紋も摂社も見てなかった!

え、なんで気づかなかったんだろう?焦りすぎですね。

ま、木瓜紋といえば八坂神社であり、牛頭天王スサノオノミコトだから、違和感はないですね。

blog.goo.ne.jp

自分のルーツを辿る24 愛媛旅行21 則之内村 大元神社 

則之内村も色々先祖にゆかりがある地域になります。

国木には、私の祖父の曽祖母コメの実家、戒能の本家があり、屋敷名を門口、新宅と言いました。国木は1500坪ほどの敷地があったそうです。

本来の字は、池が平か大熊??

 

惣田谷には、曽祖母の実家高須賀本家がありました。屋敷名をなかぶ。先祖には庄屋を務めた人もいて、苗字帯刀も許されていたそうです。

 

保面にも高須賀の親戚が住んでいたそうです。土蔵のある大きな家だったとか。

 

本当ならこちらも人が住んでいるところまで行ってみたかったですが、なにぶん不便な場所・・。家があるのはまだ奥だったので諦めました・・。

 

このコメの親兄弟がわかれば、もしかしたらお墓も大通庵にあるのかもしれないのにな・・とか思ったり。

昔の女性は特に重要視されていないので、詳細がわからないのですよね。

とりあえず、神社系は何かしらあるかもしれないと思って行きました。

 

とうおんデジタル資料館の川内町誌の第二部三内によると・・

大元神社(大字則之内奥惣田谷にあり)

祭神:天御中主命

由緒不詳

当社は氏宮三島神社の所轄であったが、氏子中協議の末、明治末年三島神社に譲り、現在は三島神社に属す。明治23年火災にかかり一切を鳥有に帰したが、同24年再建、昭和33年拝殿大修繕奥惣田谷前六戸によって維持されている。

 

ちなみに氏宮三島神社は、大字則之内宮之前にあります。

祭神:大山祇命、雷神、高龗神(たかおかみ)

境内神社:八幡若宮神社龍神社、鎌倉神社、猿田彦神社

由緒:当神社は、上古の世久久米主命、神籠を立て大山祇を祀り大神と称え、この里に住む氏族の氏神と崇敬し奉った。(略)人皇第43代元明天皇の御代和銅5年8月23日、越智玉興、当国大三島から高龗神、雷神を勧請して合祀した。文永、弘安の役、蒙古襲来の節は勅を奉って、河野通有および通純国中の神社に祈り出陣し筑紫に下ったが、その時神祐あって偉勲を建てた。よって社殿の修補ならびに神領水田三反の寄付あり、その後嘉吉の頃名越の城主河野四郎武器奉納して崇敬したという。

年代はわかりませんが、高須賀富太郎と読めます。

鳥居は昭和34年5月、米寿記念 高須賀富太郎とあります。

大山祇神社にあった玉乗り狛犬と同じものがあり、びっくり。

でも由来を見ると、なるほどっと思いました。

昭和44年10月米寿記念 高須賀富太郎とあります。

全部同じ人!!地元の有力者でしょうね。

常夜灯がここにもありました。

河野家の家紋も置かれていました。三島神社とゆかりがあれば当然ですね。

こちらも河野家の家紋と同じですね。

昭和3年、一番右に書かれているのはやはり富太郎さんみたい?

昭和3年、左はやはり富太郎さん(笑)右は武部警一かな?

折れてしまった常夜灯でしょうか。

民家は見えているんですけどね。

ざっくり、この辺りに住んでいたんだろうなと思いを馳せて、後にしました。

ここではあまり収穫なし。

焼けてしまって再建されていたから仕方ないですね。

 

自分のルーツを辿る23 愛媛旅行20 井内村 大通庵

大通庵は戒能家歴代の墓があるところです。

これが一番行きたかったところです!

でも思っていた以上にお墓は山のようにあり・・まとめるのは無理そうでした。

あとでゆっくり見ようと思って写真だけざっととりましたが、一つずつ撮るのは難しかったし、古いものは読めるものも少なかったですね。

多分、これを読んでいる人で現地になかなか行けない人もいると思うので、何かしら参考になればと思います。

これの整理が多分時間がかかるだろうなと思って、手がつけられませんでした^^;

 

 

以下抜粋。

『川内町誌 第二部三内』P484、P553~
井内蔵元 五間に二間半の建物に、本堂と庫裡を兼ねる。本尊阿弥陀如来弘法大師とを紀る。『戒能略譜』によると、戒能与惣左衛門通定(井内村の庄屋)、井内八社大明神(吉井神社)の霊廟 を南興し、又大通庵を􏰀り、北方村大興寺の末院とし、祖先の冥福を祈ったとある。 境内に石燈籠一対、宝筺印塔、戒能家歴代の墓がある。その中戒能備前守通森(法号 通玄 院殿覚海義円大居士) の基は、もと則之内村安国寺の塔頭、乾寧院にあったのを、後にここに移したのだと云われている。墓石の碑文には、こう書かれている。

〈戒能家は河野家の一族にして世々其の老職に任じ温泉郡道後戒能の地に住す、因りて 氏とす。天文中伊賀守通運主命を奉じて浮穴郡井内村に移り、大熊、小手滝、鳥屋森、塩ゲ森の四城を守る。其の子備前通森勇武にして通直に仕えて誠忠を致し、数度戦功を樹つ。 天文十三年関白豊臣秀吉の猛将小早川隆景に降るや、通森亦開城して民間に降り、十五年、通直安芸の竹原に移るに際し、通森随い行って専ら保護の任に当る。伊予に帰り大能の国木邸に屏居し終生門を出でず。天正文禄の交、四月五日病を以って歿す。遺骸をを安国寺塔頭顕乾寧院に葬り、法謚通玄院殿と曰う。通森平岡氏を娶り二男を挙ぐ。長子通次、広 島にて夭折し、次子通邑家を継ぐ。爾来家運降昌、子孫蕃衍し、分れて数十家となり、各 地に散所す大正八年八月四日墓を大通庵に遷す乾寧隠消滅、墓亦荒廃せるを以て今玆に又その台石を新設し、大いに宗族を会し、以て供 養を営み追福を薦む。乃ち其の顛末を略敍すること此の如し。

                               西園寺源透撰
                                                                                                                         戒能家遺族建

嘉永の後はちょっとわからないですね。

先祖累代の墓

八角形の中に三が描かれています。
河野家の家紋「桟敷に揺れ三文字」と同じですね。

昭和6年とあるので、思っていたほど古くなかったです。

あまり最近の墓をアップするのもどうかと思いますが・・。
これのように、古いのがちらっと混じっていたりするんですよね。

このように、大正3年とは読めますが、傷みすぎていてわからないんですよね。

後ろにあるのがエドヒガンザクラです。

一度この満開の桜を見てみたいですね。

裏はこんな感じです。

こちらは大正5年でした。戒能●衛門さん以下合祀しているみたいですね。

文字すらわかりません・・。

戒名は若干読めます。

もー、みてもわからないわー、と投げやりに(苦笑)

嘉永六丑年

これはなんか読めそうですね。

こんな風に隠れちゃっているものも・・。

左側、通大かな?

明治29年 戒能通太郎でしょうか?
右奥 戒能●左衛門、左奥 天明3年ともありますね。

一番左だけ天明3年と読めますね。

明治33年 戒能好五郎とありますね。

左手前明治5年、左奥明治8年戒能嘉吉郎と読めます。
右手前は嘉永6年かな。

安永5年と読めます。

手前、安永5年

こんな感じでまとめちゃっているのもあります。

このお墓は笠付型といい、竿石に笠をつけたものです。”大名墓”とも。武士がかぶっていた陣笠をかぶっている様子で、先祖が武士だったことが所以になります。

私の先祖の墓にもあったので、この形を見たのは2度目になります。

kyotomichi.hatenablog.com

 

過去、京都含めて武士の墓も色々見てきていますが、あまり見たことないんですよね。地域的なものなのか、それとも武士自慢したい人がやっているのか・・(笑)

どういう時にこれを建てているのかもう少し知りたいものです。

 

文政12年、13年と読めます。

これも後ろに古いのがずらり。

これはもはや岩にしか見えない。何か刻んでいたのかもしれませんね。
明治以降亡くなった方の代々の名前が書いてある墓標もありましたが、平成まで書かれていたので省略しました。

ということで、ここでの収穫はほとんどありませんでした。
でも、行けてよかったです。