京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

自分のルーツを辿る23 愛媛旅行20 井内村 大通庵

大通庵は戒能家歴代の墓があるところです。

これが一番行きたかったところです!

でも思っていた以上にお墓は山のようにあり・・まとめるのは無理そうでした。

あとでゆっくり見ようと思って写真だけざっととりましたが、一つずつ撮るのは難しかったし、古いものは読めるものも少なかったですね。

多分、これを読んでいる人で現地になかなか行けない人もいると思うので、何かしら参考になればと思います。

これの整理が多分時間がかかるだろうなと思って、手がつけられませんでした^^;

 

 

以下抜粋。

『川内町誌 第二部三内』P484、P553~
井内蔵元 五間に二間半の建物に、本堂と庫裡を兼ねる。本尊阿弥陀如来弘法大師とを紀る。『戒能略譜』によると、戒能与惣左衛門通定(井内村の庄屋)、井内八社大明神(吉井神社)の霊廟 を南興し、又大通庵を􏰀り、北方村大興寺の末院とし、祖先の冥福を祈ったとある。 境内に石燈籠一対、宝筺印塔、戒能家歴代の墓がある。その中戒能備前守通森(法号 通玄 院殿覚海義円大居士) の基は、もと則之内村安国寺の塔頭、乾寧院にあったのを、後にここに移したのだと云われている。墓石の碑文には、こう書かれている。

〈戒能家は河野家の一族にして世々其の老職に任じ温泉郡道後戒能の地に住す、因りて 氏とす。天文中伊賀守通運主命を奉じて浮穴郡井内村に移り、大熊、小手滝、鳥屋森、塩ゲ森の四城を守る。其の子備前通森勇武にして通直に仕えて誠忠を致し、数度戦功を樹つ。 天文十三年関白豊臣秀吉の猛将小早川隆景に降るや、通森亦開城して民間に降り、十五年、通直安芸の竹原に移るに際し、通森随い行って専ら保護の任に当る。伊予に帰り大能の国木邸に屏居し終生門を出でず。天正文禄の交、四月五日病を以って歿す。遺骸をを安国寺塔頭顕乾寧院に葬り、法謚通玄院殿と曰う。通森平岡氏を娶り二男を挙ぐ。長子通次、広 島にて夭折し、次子通邑家を継ぐ。爾来家運降昌、子孫蕃衍し、分れて数十家となり、各 地に散所す大正八年八月四日墓を大通庵に遷す乾寧隠消滅、墓亦荒廃せるを以て今玆に又その台石を新設し、大いに宗族を会し、以て供 養を営み追福を薦む。乃ち其の顛末を略敍すること此の如し。

                               西園寺源透撰
                                                                                                                         戒能家遺族建

嘉永の後はちょっとわからないですね。

先祖累代の墓

八角形の中に三が描かれています。
河野家の家紋「桟敷に揺れ三文字」と同じですね。

昭和6年とあるので、思っていたほど古くなかったです。

あまり最近の墓をアップするのもどうかと思いますが・・。
これのように、古いのがちらっと混じっていたりするんですよね。

このように、大正3年とは読めますが、傷みすぎていてわからないんですよね。

後ろにあるのがエドヒガンザクラです。

一度この満開の桜を見てみたいですね。

裏はこんな感じです。

こちらは大正5年でした。戒能●衛門さん以下合祀しているみたいですね。

文字すらわかりません・・。

戒名は若干読めます。

もー、みてもわからないわー、と投げやりに(苦笑)

嘉永六丑年

これはなんか読めそうですね。

こんな風に隠れちゃっているものも・・。

左側、通大かな?

明治29年 戒能通太郎でしょうか?
右奥 戒能●左衛門、左奥 天明3年ともありますね。

一番左だけ天明3年と読めますね。

明治33年 戒能好五郎とありますね。

左手前明治5年、左奥明治8年戒能嘉吉郎と読めます。
右手前は嘉永6年かな。

安永5年と読めます。

手前、安永5年

こんな感じでまとめちゃっているのもあります。

このお墓は笠付型といい、竿石に笠をつけたものです。”大名墓”とも。武士がかぶっていた陣笠をかぶっている様子で、先祖が武士だったことが所以になります。

私の先祖の墓にもあったので、この形を見たのは2度目になります。

kyotomichi.hatenablog.com

 

過去、京都含めて武士の墓も色々見てきていますが、あまり見たことないんですよね。地域的なものなのか、それとも武士自慢したい人がやっているのか・・(笑)

どういう時にこれを建てているのかもう少し知りたいものです。

 

文政12年、13年と読めます。

これも後ろに古いのがずらり。

これはもはや岩にしか見えない。何か刻んでいたのかもしれませんね。
明治以降亡くなった方の代々の名前が書いてある墓標もありましたが、平成まで書かれていたので省略しました。

ということで、ここでの収穫はほとんどありませんでした。
でも、行けてよかったです。