続いて祇園町へ。
千舟町より南、いよ立花駅近くにあります。
名前からてっきり道後の近くか松山城の近くだと思い込んでいました。
こちらに八木家の本家(井内村から引っ越した後)があります。
祖父の弟の子供が継いでいて、
さすがに私からは遠いので、叔母の協力を得ました。
祇園町は、昭和5年の町名改正まで素鵞村(そがむら)の一部でした。
素鵞村のうち、現在の中村と立花の一部が祇園町という町名に変わりました。
今回は時間がないので行っていませんが、
近くに素鵞神社があり、素戔嗚尊を祀っています。
この素鵞神社は、祇園神社と呼ばれていたことから、祇園町となったそうです。
京都の八坂神社と何やら関係がありそうですね。
曽祖父が書き残したものがたくさんありました。
京都に観光に行った時のガイドブックなんかもあって、おもしろそうでした。
これらの中から先祖に関係のありそうなものだけをお借りしました。
曽祖父が自分の日記をさらにまとめなおしたものです。
すべてデータに打ち込みましたが、めーっちゃ大変でした。
書かれている通りに入力したかったので変換が難しい。
一年がかりとなりました^^;
他のも読みたいけど・・さすがにこれ以上お願いできず。
もともとあまり来てほしくないといわれていたのを、
叔母がなんとかしてくれたのもあって。
本家は先祖にはまったく興味もないんですよね・・。
ああ、貴重な資料がもったいない。
あと位牌も見せていただきました。
今のお墓の場所は聞いただけで、あとは写真をもらいました。
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<資料からの検証>
祖父の自伝によると、
〈家の仏壇にある位牌は、父から七代前の先祖まで遡ることができ、墓地にある墓碑の数もその程度であった。多分父より七代前に分家して家が出来たのであろう〉
これをまとめると、
□-□-□-□-□-林助(1826年生)-常蔵(1854生)-隣吉(1886生)-毅(1910生)
となるのだが、毅が14歳(井内村在住)のときまで常蔵は生きていたので、それまで位牌は林助までしかなかった。よって林助の代から7代だと思われる。
つまり、
□-□-□-□-林助(1826年生)-常蔵(1854生)-隣吉(1886生)-毅(1910生)
そして『戒能氏沿革史』(伊予史談会)には、こんな記載がある。
〈某年甲家の惣左衛門通常、松山藩より井内村庄屋命せらる、延宝五年(1677)藩より**の功より八木をたまわる(戒譜)〉
もしこの通常が八木家の初代だとすると、
通常-通定-□-□-□-□-林助(1826年生)-常蔵(1854生)-隣吉(1886生)-毅(1910生)
25歳で子供がいると仮定すると、通定から林助まで、
25歳×6人=150年、1677+150=1827年で、林助と同時代となる。
ちなみに、八木家には刀剣(大刀と小刀と短刀)や銅鏡4つが伝わっていたそうです。
大刀は「長船祐定」の銘、小刀は「相州正弘」の銘、短刀は無銘。
銅鏡には、青銅製で○の形をしており、円形部が直径二十センチほどのが一つと、直径十センチほどのが三個で、どれにも裏面に梅の花などの彫刻があり、大きい方には「天正藤原作」(一五七三~一五九一年)と銘。
大熊山にある大熊神社にも藤原光長作の銅の手鏡があり、関係があるかも・・と祖父は残しています。この刀剣は、廃刀令で出さなくてもいいのに提出してしまったとかで今はありません。
これらから、通常が先祖だったら・・とわくわくしますが、井内村から引っ越すときにお墓も整理しており、もう昔のものが残っていないのが残念です。
刀剣好きとしては、これらの刀剣にお目にかかりたいんだけど、銘だけじゃ無理でしょうね。