続いて吉井神社へ向かいます。
『 川内町誌 第二部三内 』 P 476 ~
祭神 多紀理比売命、市杵島比売命、天之穂日命 、正哉吾勝々速日忍穂命、天津日子根命、 活津日子根命、熊野久須 毘 命、多岐島比売命
由緒 上古久米主命、勅命を奉じて久米郡の兵を率い来り、古耶等の蛮族を討伐平定し神籠を立て天神地祇及祖神を奉斎し給うたのを、顕宗天皇の御代 山部の連来目部小楯播磨より帰郷して深く当社を尊敬し常に参籠した所であると云う。その後淳和天皇の天長年間春江の 宿弥浮穴の千継当社を氏神として崇敬せられてから以来、名門武将の崇敬深く 順治 年中に至り河野伊豫守一族当社を析願所と定め 、以来其族或時は 神領を奉り或は 御沙汰書を納め 敬神怠る事なく、又永禄年中には小手獄城主 戒能備前守誓書及金刀を献納し、天正十八年 河内一宮日生宮新居田神社風宮、熊野宮明神 宮天神宮を合祀し 総河内八社明神 と称していたのを明治三年吉井神社と改称 し同四年村社に列せられた。
P486 ~ 旧井内村古社寺(組別) にもこんな記述がある。
庄屋元 ( 蔵元組 ) 五。 吉井神社 ( 祭神は所謂五男三女を紀つたのだったが、天正十八年の台 命によって左記七社の祭神を合祀 した。 河内一の宮、日生宮、新居田神宮、風宮社、熊野宮、明神宮 、 天神宮。 また明治三年 藩命によって井内村中二十三社の祭神を合祀 し た。これは吉井神社境内摂社 の厳島神社に合祀したとも云い、 又この年大平組 に あった天神宮の社殿を氏神本殿の右側 に並んで遷したが、この天神宮に祀ったとも云う。その何れが正しき や 、拠るべき証拠が 無い。
さて、その二十三社と云うは 厳島神社 、 天満宮 、 天神宮 、 素鷲社 、竈 神社 、 一の宮 、 白尾社 、 姪子社 、 山神社 、 若宮社 、 西山社 、 熊野社 、 新田炎社 、 聖神社 、 熊野社 、 北間神社 、 金毘羅社 、 風宮社 、 鎮守三島社 、 伊弉冊社 、竈神社 、 金刀比羅社
この明治三年 の合祀と天正十八年の合祀と は重復 して同社同一 神が二度合祀 されたものも あるらしい。なほ、さきに記した摂社厳島神社の社殿は今は跡形も無い。 大山組から移した天神宮 は正殿一間半 四面 、中 殿三 間に一 間半 、 拝殿三間 に二間半 である。 吉井神社の 神宝として古来鎧一着、大太刀一振り、中殿に大鈴一個 あったが、太刀は今はない。これはもと 戒能備前守通森の寄進したものだと伝えられている。境内には欅材の大 華表、石の手水鉢、石燈籠二対、自然石の兜石一個がある。
合祀されすぎ・・。
毅の日記にこういうのがある。
「村の氏神吉井神社の祭礼(10月15日)に私が獅子起こしをつとめたのも、同じ大正四年の秋であった。獅子起こしとは獅子つかいのことで、獅子舞いの相手をつとめる少年である。獅子には采配や 弓や薙刀で立ち向かうのだが、何といってもまだ5才の幼児なので、薙刀は省略して、軽い采配と弓だけを使うことになった。トンチリ、トン チリ、チリリンリン、トンチリトンチリリンと鳴る太鼓に合わせて十歩ほど進み出て、そこに眠っている獅子を采配でポンと打つ、すると獅子 が目を醒まして立ち上がり暴れ出すのを、采配や弓で防ぎながら後さがりする、といった簡単な所作を毎晩30分ほど稽古をした。(略)私は顔に白粉を塗られたり紅を刷かれたりした。口紅を塗られるのを嫌がって駄々をこねた のを憶えている。衣裳はあらかじめ用意されていた。下着はどん なものだったか忘れたが、金銀糸でぬいとりされた袖の短い黒じゅすの上着に、 力士の化粧まわしのような、きらびやかな模様の裾に金モールの飾りのある前垂れを締め、赤、緑、白、三色三本のちりめんの布を襷にして、 背中で斜十文字になるように結び、その端をだらりと長く垂らした。頭には錦の帯で鉢巻をし、手には小さな鈴のついた、やはり黒じゅすの籠 手をはめ、足にも黒じゅすの脚絆をつけ、小さな黒足袋にわらじ穿きだったと思う。(略)社殿の前の広場には蓆が十枚ばかり敷かれ、それを囲んで大勢の晴れ着すがたの男女や子供たちが待っていた。神主が祝詞を あげそこで先ず太鼓が鳴り出すと翁面の青年が出て来て種蒔きの所作をして引き揚げる、そのあとへ猿や狐の面をつけた青年たちが出て来て、 蒔いた種を拾って食べてまわる所作をする。そのあと獅子舞の 段になり、私が最初は采配で、次には弓で、獅子起こしをするのである。その合間に、二人ほどの青年がにわか狂言を演じたりする。獅子舞がすむと、蓆は巻いて取り除けられ、それまで社殿に置かれていた御輿がかつぎ出されて、境内でひと練りした挙句、御旅所へ運んで行かれる。 御旅所は社殿のある平面から二十段ほどの石段を下り、橋をわたり、三つの鳥居をくぐってから百五十メートルほど行ったところにあった。そこで再び獅子舞などが演ぜられ、そこで一休みした後、御輿は氏子たちのいる村を巡回するのだが、村が広く、山坂 道ばかりなので、毎年順番に一つか二つの地域を巡回するだけだった。その年は私が獅子起こしをつとめたので、北間と隣の中屋でも巡回したようである」
見る限り結構華やかな祭りだったのではないでしょうか。
獅子起こしはお金もかかるのである程度裕福でないとダメらしい。
京都でいうお稚児さんみたいなものでしょうか。
神輿のことなども書いていますが、長いので略しています。
昭和3年なのでまだ新しいですね。
新しいから真剣に撮影していませんが・・
世話人として菅野さん、八木さんほか寄付した人の名前がありました。
これは明治24年とあります。
書体がとっても可愛いですね。
ちょっとわかりにくいですが、紀元五百●十年?
下に世話人として戒能仲治や、八木市内などの名が見えます。
これも昭和3年でした。
古そうに見えたのに・・
戒能忠次とか読めました。
八木左作。
毅の日記にも出てきた人だーとw
生家の北側の北間側を超えて300mほど行ったところに住んでいた方ですね。
3代ほど前に10km先の別の村から引っ越してきた人で、屋敷名を「びやがそ」。
先祖の屋敷名は「さき」。口論することもあったが仲良くやっていたらしい。
墓地の土地を貸して共同墓地になっていたのだそう。上手がうちのだとか。
これも名前は見えるんですが、なんて書いてあるのかほとんど読めなくて残念。
八木仲五郎、戒能仲次、菅野亀治郎の名が見えます。
日露戦役凱旋記念
拡大してもほとんど読めず・・。
従軍者として名前が連ねられています。
村長戒能大次の時ですね。
明治40年3月
本殿・拝殿も新しい・・。
昭和46年に改築したようです。
そして表撮るの忘れていたみたいです・・( ̄◇ ̄;)
杉の木があって、昭和3年に天然記念物に指定され、樹齢約1600年で有名とのこと。
昔はこういう茅葺だったのですね。
古そうに見えたけど、これも昭和3年・・。
戒能・・なんて読むんだろう?
戒能通?
戒能義二郎
何かわからないけど、三角形なのが面白いですね。
裏には創設のことが書かれていました。
当社は和銅6年勧請、宝暦●年に再建、昭和8年に社殿改築云々。
先祖に繋がりそうな名前は見当たりませんでした。
文字が読めたらあったのかもしれませんけどね。