京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

京都と大阪の県境、離宮八幡宮の紅葉

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JR山崎駅のホームに、京都と大阪の県境があります。

ちょうど真ん中に立ってみる。

これぞ「ふたつの国を股にかけた女」!?(字が違っ)

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それはそれとして、離宮八幡宮に行ってきました。

まだ紅葉がきれいでびっくり。

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天気もよくて、とても気持ちがよかったです。

ちょうどこの日、えごまフェスタというのをやっていたので、

えごま搾油機見れるかなーと思ったのですが、

終わった後でした・・残念。

 

 

離宮八幡宮についてはこちら

kyotomichi.hatenablog.com

ローム ライトアップ

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ロームのライトアップにいってきました。

場所は西大路五条近くになります。

 

実は・・初!

へぇ・・こんなふうな感じなんですね。

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木がずらりとライトアップされていました。

どうせなら、この間を通りたい・・。

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滞在時間・・多分15分くらい?

さーっと歩いただけでした^^;

 

綺麗なんだけど、正直ちょっと物足りない。

 

梅小路公園 朱雀の庭 ライトアップ、西八条第跡

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梅小路公園内にある朱雀の庭にいってきました。

夜はさすがに初めて。

確か前に昼間も撮りに行ったはずなのに、ブログ検索したらなかった・・。まだ書いてなかったのか^^;

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雨上がりだったけど、よい感じできれいでした。

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西八条第跡

 

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梅小路公園内にも案内板があります。(真ん中あたり)

西八条弟は八条邸とも呼ばれた平清盛の広大な邸宅で、仁安元年(1166)頃に造営されたとされています。その跡地は下京区歓喜寺町・八条坊門町、南区八条坊門町、八条町に当たります。

 

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参考:日文研 花洛往古図(内容年代:平安時代末期-鎌倉時代

東寺や西寺と比較しても大きいですよね。

こちらには西八条殿とあります。

その左側に六宮六孫王と書かれています。

 

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今の地図で言うとこのあたりになります。

 

平安京オーバーレイマップ もご参考に。

 

これを見ると、梅小路周辺一帯が西八条弟だったことがわかります。六孫王神社も含んんでいたようですね。

某歴史研究者によると、平清盛公ゆかりといっている若一神社は、残念ながらそこから外れているとのこと^^; 西八条→西大路八条という考えがあったらしい・・。

地図見ても・・違いますよね。

 

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雨上がりだからこそ撮れるこの瞬間!

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池に映る紅葉がまたお見事です。

ほとんど人もいないし、ゆったりと楽しめました。

 

義経ゆかりの地へ 牛若丸誕生井、牛若丸胞衣塚、光念寺(常盤腹帯地蔵)、源義経産湯井ノ遺址、常盤井

バスで「牛若」を通り過ぎ、そうだこの辺に義経ゆかりの場所があるんだったと思いだし、西賀茂大将軍神社の帰りに寄ってきました。

ちょうど義経に関連する本を読みまくっていたので、感慨深いものがあります。

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大徳寺北側、船岡東通を北に行ったところ(北山通りより一本南側)に、

畑の中に、牛若丸誕生井、胞衣塚があります。

平安京オーバーレイマップを見るとわかりやすいです。

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牛若丸誕生井

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牛若丸胞衣塚

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こちらには、牛若丸産湯井・胞衣塚 とあります。

【由緒】

牛若丸はこの地で平治元年(1159)生誕しました。産湯井・胞衣塚と彫られた石碑には応永2年(1395 室町末期)と年号が銘記され、京都で一番古い石碑と思います。今は畑の中ですが、明治のころまで牛若丸産湯第弁財天女社の小宮で、開運の御利益と崇められていました。この地は山城国(城州)愛宕郡大宮郷洛北紫竹上野村で郡名は鷹峰に愛宕さんの鎮座と山が近いので、瀧や谷水のせせらぎの音の二説ありますが、定かではありません。大宮郷は十カ村に別れ、江戸時代正保年間(370年前)380戸1600人で郷の中心は紫竹村でまさに日本の原風景の寒村でした。今その区域の人口は約3.5万人。

さらにこの地は洛北七野と呼ばれ北から萩野(萩の自生)、紫竹上野(紫竹の竹の自生)、紫野(若菜の自生)の順、三つの野は禁野(しめの)として天皇や朝廷の狩猟、若菜摘みの場であったことから、千年の昔より近年まで多くの山荘が営まれました。

左の道は洛中から若狭まで二十里の道のりの上野街道(丹波道、氷室道)で周山街道開通まで杉坂、真弓、山国、知井を経て、若狭と呼ばれた往来の多い洛北の主要道でした。若狭から鯖が京の都から物資や文化の交流の多い歴史街道です。旧暦6月15日には、御所へ納める氷室の氷が馬の背により運ばれたことはよく知られています。上野の里は大災や疫病鎮めの京の三奇祭の一つ、やすらいまつり(今宮神社)を平安時代から今日まで伝承されています(4月第二日曜日)。付近の光念寺には常盤御前が安産を祈願したとされる常盤腹帯地蔵も祀られています。

平成26年11月 上野新三郎」

と書かれています。

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義経は1189年に31歳で自害します。死後200年もあとに建てられた石碑なんですね^^;

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光念寺にも行ってみました。常盤腹帯地蔵が見たかったのだけれど・・誰もいなさそうでしたので断念。雰囲気だけ写真に納めました。

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源義経産湯井ノ遺址

大正15年10月に建てられた石碑

義経誕生の時にこの井戸水を産湯に汲んだとい傳説あり。

後に大徳寺王室大源庵を建立したが荒廃して竹林となった。大正14年12月に紫竹區劉整理して、井泉ノ原型を失ったので、その由緒を記して後世に伝えようと思う、といったことが書かれています。

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この石碑の下の石の下にあったのかなぁ?

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大徳寺を通り過ぎて、大徳寺通をさらに南下していきます。

ふたばが見えたら、手前を右(西)へ。

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こんなところにあるの??と思っていたら右側に見えてきました。

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南築山町

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階段下に井戸があったのでしょうね。

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常盤井と書かれています。

この奥に衣掛塚もあったのですね。さらに北には弁慶腰掛石も!

うっかり見落としてました。

 

 

 

西賀茂 大将軍神社

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行けてなかった最後の大将軍神社にやっといってきました。

市バスの一日乗車券を駆使して、大徳寺から北山通りを超えた大宮交通公園で降りて、そこから徒歩15分ほどでしょうか。

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由緒書きには、

推古天皇17年(約1300年前)の西賀茂にあった瓦窰(かわらがま)で働いていた人々の瓦屋寺の鎮守様として建立されたと伝えられ、桓武天皇平安遷都(約1200年前)にして皇都の四囲に大将軍神社を祀られて、当神社を北方の守護神とされたと伝えられている。その後今日までこの土地の氏神様として鎮座されている。」

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一瞬入るのを躊躇した入り口でしたが、いったん入るとそれほど澱みはなかったです。

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本殿。

祭神は磐長姫命(いわながひめのみこと)

天正19年(1590)賀茂別雷神社摂社片岡社の御本殿として建立され、寛永6年(1630)賀茂社御造営のおりに譲り受けたもので、流れ造社殿としては日本で最も古い賀茂社の御建物で、昭和60年に京都市指定文化財に指定されているそうです。

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東側には

片岡神社 事代主神(ことしろぬしのかみ)

貴船神社 高龗神(たかおかみのかみ)

稲荷神社 宇気母智神(うけもちのかみ)

角社(すみやしろ) 素戔嗚尊(すさのおのみこと)

4社が祀られています。

一番右の大きいのが、角社です。

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その北側には祓い所でしょうか?

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 西側には、

愛宕神社 火之迦俱土神(ほのかぐちのかみ)

松尾神社 大山咋神(おおやまぐいのかみ)

八幡神社 應神天王(おうじんてんのう)

春日神社 天兒屋根命(あめのこやねのみこと)

山王神社 大山咋命(おおやまぐいのみこと)

 

 

ん? 大山咋神大山咋命って別人??

 頂いた栞には、両方大山咋神になっていました。

 

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境内には朱色の玉垣で囲われた場所が3か所あります。

数百年繁茂した大木が倒れた後、その根元に種が落ち、自然に成長した実生の木なのだとか。

 

ところで、この神社は、

日文研 花洛往古図(内容年代:平安時代末期-鎌倉時代)にも載ってないんですよね。

平安時代の守護とされたのなら、載っていないのが不思議で仕方ない。

そして、本殿の主祭神磐長姫命素戔嗚尊でもないから。

なんで大将軍なのに違うんだろう・・??

 

また次に、総まとめをしてみたいと思います。

 

ところでこちらの例祭もちょっと変わっています。

七人の未婚女性を選び、神饌物を御舟にいれ、頭に頂いて運びます。

そして宮詣が神饌物とそれを運ぶ乙女を警護するんだとか。

なんだか・・神への生け贄に思えてしまうのは気のせいでしょうか。