京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

曽祖父の旅路を辿る④ 京都国立博物館「国宝」

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さすがに展示と曽祖父は関係ないけど・・。

ようやく国宝も行ってきました。

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博物館のトラりんがおもしろかった。すごいカッコしてるしうけた!

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日本書紀、源氏、平家、琉球王国関連が見れたのがよかった。
螺鈿細工はほんと綺麗でした。
仏像とかもよかった。

人が多くて、なかなか見えなくて、
 あまり興味のないものは二列目で、興味のあるものだけ前列で見ました。

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 出たら真っ暗・・。

 

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京都駅で国宝に展示している写真があって、

これなら写真撮れるのでよかった。

 

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たくさん堪能したけど・・さすがに足ガクガクになりました^^;

曽祖父の旅路を巡る③ 豊國廟(ほうこくびょう)

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五条坂を下がり、東山七条通りを東へ、京女を越えたところにあります。

これも結構歩く・・。

前から気にはなっていたけど、なかなか行けずにいました。

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階段を上がったら・・

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鳥居があった!

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まだまだ向こう・・。

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ここから、登拝料100円がかかります。

社務所で払っていざ!

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豊国廟(ほうこくびょう)

豊臣秀吉の廟所(墓所

「天下統一を果たした秀吉は、慶長3年(1598)8月18日、伏見城で63歳の生涯を閉じ、遺骸は遺命により、ここ阿弥陀ケ峰に葬られた。翌年4月18日、秀吉は後陽成天皇より、正一位豊国大明神の神位・神号を賜り、山腹には境内域三十万坪、社領一万石を誇る早大壮麗な豊国社が創建された。

以後、毎年4月と8月の18日には勅使や北政所豊臣秀頼の名代を迎え、盛大な祭礼(豊国祭)が執り行われたが、慶長20年(1615)豊国家が亡びると、幕府は豊国社の廃祀を命じ、以後は墓参りする人もなくなった。

現在の廟は明治31年(1898)豊太閤300年祭に際し、豊国会により全国からの募金で整備されたもので、そのとき墳上に高さ約10メートルの巨大な五輪石塔(伊藤忠太設計)が建てられた。

なお豊国神社は明治13年(1880)、方広寺大仏殿跡地に豊国神社として再興されている」

とあります。

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え・・・っと。

いきなり言葉を失う・・。

 登り階段恐怖症の私には、心が折れそうになる階段。

手すりもないとは、きついな。

でも途中、少し平坦なところがあったので、

休憩しつつ上りました。

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上がりきったらあるのかと思ったら・・

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ええ・・まだ階段!?

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ひえぇ・・。

恐怖心と闘いながら、がんばりましたよ。

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ようやく到着して、お参りしました。

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上からの眺め。

昔はもっと違ったのかもしれませんね。

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降りるのは全く問題なし。

なんとか20分で往復できました!

社務所の方に聞くと、結構速い方だそうです。

曽祖父の旅路を辿る② 清閑寺、六条天皇陵、高倉天皇陵

 

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五条坂のバス停から、国道の横を歩くこと25分。
さすがに…くじけそうになりました。
人が居なさすぎて!

心細いことこの上ないですね。

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参道はあったけど、ものすごい階段・・。

清閑寺とつながっているのかもわからないし、

とりあえず寺を目指すことにしました。

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歌の中山。

地名で、清閑寺から清水寺の間の山路をいいます。

「安永9年(1780)「都名所図会」に、昔清閑寺に真燕僧都という僧がいて、ある夕暮れ門外に佇みて行き交う人々を見ていると、髪かたち美しい女性が一人で行くのを見て、たちまち愛しい心が起こった。言葉をかけるすべもないので、「清水への道は何れか」と問いかけたところ、その女性は、

見るにだに まよふ心の はかなくて

 まことの道をいかでしるべき

と言い捨て、姿をかき消してしまった。その女性は化人の類であるとも言われ、その歌を詠んだ場所を「歌の中山」という、と記されています。」

 

清水寺まで500mとあり、

ここから清水寺に抜けられるようです。

ただ、なんかここも心細そうな・・。

あとで境内で会った方に、清水寺を進められたけど、

いやというほど行っているのと時間もないのでやめました。

きっとこの道を祖父も通ってきたのでしょうね。

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階段のところにありました、天皇陵。

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「1歳で即位した六条天皇の養育をしていた藤原邦綱が、この寺を愛し、境内に邸宅を営まれ、六条天皇行幸されていました。

安元2年(1176)、六条天皇はこの邸宅で崩御され、その遺骸は清閑寺の小堂に葬られました。次に即位された高倉天皇もよく行幸されていました。高倉天皇が寵愛した小督局は、中宮平ら徳子の父である平清盛に宮中から追い出され、ここで尼にさせられました。高倉天皇は「私が死んだら、局のいる清閑寺へ葬ってくれ」と遺言をされ、養和元年(1181)、21歳で亡くなられ、遺言通りこの寺の法華三昧堂に埋葬されました。このことは源平盛衰記(巻25)に記されています。」

とあります。

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寺へはさらに階段を上っていきます。

わーん、心細いっ!

萩野はこういうところを一人で行くのは、本当に苦手です。

でも、意を決していきます。

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やっと入口が見えてきました。

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小督局の供養塔

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「歌の中山清閑寺といわれるこの寺は、真言宗智山派に属し、延暦21年(802)紹継法師の創設によるものですが、古典「平家物語」に書かれた小督局が、平清盛のため尼にさせられたところといわれます。小督は高倉帝の愛をうけましたが、帝の中宮建礼門院が清盛の娘だったため、嵯峨に身を隠したのは有名で、これをもとに作られたのが謡曲「小督」です。

しかし帝の心は変わらず、私が死んだら小督のいる清閑寺へ葬ってくれと遺言され、養和元年(281)亡くなられたので、この寺に埋葬されたといわれます。寺の背後の山中に御陵があり、傍らに小督の墓があり、またこのうらにある宝筺印塔は供養塔だといわれます」

本尊は、菅原道真公御作の十一面千手観世音菩薩

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黒田清輝「昔がたり」

「明治・大正期の洋画家黒田清輝は、明治26年(1893)、フランス・パリから帰国後の京都旅行にてこの寺に立ち寄り、寺の層が語った小督局の悲恋物語を聞いたとき、現実から離脱するような不思議な感動に襲われたそうです。代表作昔語りは、このことを着想に制作され、清閑寺山門から高倉天皇陵、歌の中山道を背景に描かれ1898年に完成しましたが、焼失してしまいました。現在図の全体を知るにはこの下絵しかない」とあります。

 

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鐘楼は、享保15年(1730)に再建されたもの。

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要石

扇を広げたような形で市内が一望でき、石がちょうど扇の要の位置に当たることからこう呼ばれ、願いをかけると叶うといわれています。

触ってみると、ほんのりあったかくてびっくりしました。

昔は、山科・大津方面から京都へ出るには、この付近が通り道で、東のほうからこの寺へたどり着いて初めて京都が見えたので、一つの名所となっていたそうです。

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清閑寺窯発祥地

「現在の京都市東山清閑寺山ノ内町にあった古窯。

江戸時代(1615-24)に清閑寺住僧・宗伯が開窯した。

宗伯は京焼の名工野々村仁清の師でもあった。」

京陶器の起源は、聖武天皇の御代に、清閑寺の寺領に窯を気づいて土器を焼いたのに始まるといわれています。この清閑寺窯が後の南北朝時代に清水焼となり、続いて粟田焼が生れ、この二つの流れを軸として京焼は発展していきました。

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与謝野礼巌(1823-1898)

与謝野鉄幹の父、西本願寺の役僧・歌人

岡崎の願成寺に住む

明治二十七年愛宕郡田中村に移る

明治29年9月妻を亡くし、その冬清閑寺へ隠栖した。歌を3万首近く詠んだと云われている。墓は西大谷の墓所にあり

年を経て

世にすてられし

身の幸は

人なき山の

花を見るかな

 

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清閑寺茶室「郭公亭」

清閑寺は幕末に清水寺成就院住職の月照証人と西郷隆盛がしばしば勤皇の謀議をした所で、安政五年(1858)月照水戸藩の密使降下に尽力し、幕府から狙われた時、ここで西郷と密かに会い、都落ちの計画が茶室「郭公亭」で行われた。郭公亭は鐘楼堂の上方にあったが、荒廃によって平成3年に惜しくも解体された」

 

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 紅葉の時期にはまだ少し早かったです。

 そして、清閑寺・・肝心の本堂撮り忘れました・・ショック。

帰りは下り坂だったこともあってか、15分で五条坂まで戻れました。

曽祖父の旅路を辿る① 京都市動物園 ツシマヤマネコ、九重の塔跡メインで

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愛媛に住んでいた曾祖父が、明治45年3月(1912年なので、105年前!)に、京都に来た時のルートを逆辿りしました。

ちょうど今日のコースに近かったからというのもあって。

さすがに全部行ってられないので、行ってないところだけ。

それでもかなりしんどかった。(まぁ、前を通っただけのもあるでしょう) 途中ほんと何度バスかタクシーに乗ろうと思ったことか。

動物園から清閑寺まで・・。

まあ、五条坂までバスではいきましたけどね。
そして清閑寺から博物館までへタクろうかとか、博物館から家までタクろうかとか・・。かなり挫けてました。

曽祖父は歩いたでしょうからそれを辿りたかったのでがんばった。

まあ、清水寺から八坂さんまでは歩けるし、八坂さんから平安神宮も歩ける。別の日に歩いたことはあるのでよしとする。
世の中便利になったもんですね。

(日記より)
『二十二日宿を出て博物館を見て、阿弥陀ヶ峰の豊太閤の墓(豊国廟)を見て、知恩院(ルート的には智積院と思われる)、妙法院豊國神社大仏殿の西大谷島辺山を通ふて、清閑寺六条天皇高倉天皇の陵を拝し、子安観音音羽の滝清水寺八坂の塔、八坂神社、円山公園知恩院インクライン南禅寺、動物園、黒谷寺、真如堂銀閣寺、吉田神社、稲荷神社(多分、竹中稲荷神社か?)、京都大学前の病院前の旅館え宿り』

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この日は、京都市動物園へ行ってきました。
もちろん目的はツシマヤマネコ
来週までしか見れないんで(;_;)

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入り口すぐのところにいましたが、

…寝てます。

仕方ないので、せっかくだからぐるっと一回り。

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 法勝寺九重の塔跡

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京都市動物園は、平安時代後期に白川天皇が建立した法勝寺境内の南半分にあたります。法勝寺は金堂、八角九重塔、講堂、阿弥陀堂などの仏堂を備えた、院政期の京都を代表する大寺院でした。園内では八角九重塔や阿弥陀堂の建物跡とともに庭園の池跡などが見つかっています。

九重塔は、現在の観覧車の位置にあり、高さ27丈(役81m)との記録があり、基壇の上に9層の屋根と最下部に裳階と呼ぶ小さな屋根が取りつく巨大な塔でした。(略)石材は細長い切石で、同じ形状の石材は南側の噴水池の中にも見ることができます。これらは、一端の角が二つ合わせにすると約135度になるように加工されていることから、八角九重塔の基壇に使用されていた石材である可能性があります。」

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たぶんこれの事でしょうか?

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塔があったのはこの観覧車あたりになります。

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ペンギン、好きなんです。

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ヤギにもほのぼの~。

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フェネック、かわいい。

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シマウマ、おだやかそうだけど、門ごしにケンカしてました^^;

 

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結構金網が多くて、ちょっと邪魔・・。

ほかの動物園、ここまで多くないような気が・・??


ぐるっと一周回って戻って来ても…ツシマヤマネコまだ寝てます。

そしたら、生まれた時からの動画があると周りの人から聞いて、写真も見せてもらって、場所が動物園の奥…まぢか。
でもせっかくなら見た方が良いと言われて行きましたよ。

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確かにかわいかったです。見てよかった。

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法勝寺のパネルもありました。

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で、また戻ってきて3度目…やはり寝てる。
こればかりは仕方ないですね。
ま、一応顔は撮れたしよいとしよう。

兵庫 本住吉神社(もとすみよしじんじゃ)

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JR住吉駅の近く、ガード下をくぐると右手に見えてきます。

扁額には、本住吉之宮と書かれていました。

 

もともと祇園祭の記事を書いているときに神功皇后に興味を覚え、

さらに、 高田崇史先生の「神の時空 女神の功罪」を読んで、

行ってみたくなりました。

kossmag.com

 

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まっすぐの参道

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本殿

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神紋は桔梗です。

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由緒書きによると

神功皇后が九州から難波に向かわれようとせられたところ、

どうした事か御船が動かなくなり、

務古(むこ)の水門(みなど)にお帰りになりト(うらな)われましたところ、住吉三神(底筒田命・中筒男命表筒男命)は、

『わが和魂を大津渟中倉之長峡(おおつねなくらのながお)にまつれ、

そこで往来する舟を見守ろう』と仰せられたので、

ここにその住吉三神をお祀りになりました。

(当社の起源、紀の年立では西紀201年)

後に神功皇后を併せてお祀りして、当社御祭神は住吉大神神功皇后の御四柱となりました」

とあります。

 

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御朱印を頂いたときに、由緒書きを頂きましたが、

その横にこの地図が載っていました。

おお、なるほど!

これが『神の時空』にも出てきたように、このあたりが海だったというものですね。

大阪の住吉神社の方がすっかり有名ですが、

私の中では住吉=兵庫でした。

九州から船で来るのに、大阪より絶対こっちの方が先ですよね。

今回やっとここに行けてよかったです。

大阪の方もまた行ってみたいと思います。

気になる方はぜひ本を読みましょうw

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本殿右手にある摂社。

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水神宮

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左 大山衹社(山の神)

右 猿田彦社(邪気払いの神)

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左 塞の神(邪気ふさぎの神)

右 大海社(海神と御子)

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左から 天満ノ神、高良神、木花咲也姫、綿津見神、天水分神、大山咋神大物主神大国主神

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大日女社(天照皇大神

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莵原稲荷大神

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豊岩窓社(門の守神)

門の右手にあります。

左手にも奇岩窓社というのがあったみたいです。

結構見ていたはずなのに気付かなかったです。