京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

道祖神社、明王院不動堂、オムロン内稲荷社、京都タワー

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道祖神

歩いたついでに・・こちらにも寄ってきました。

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明王院不動堂

目的はこっち。新選組の屯所があったともされているところです。

すごく久しぶりに来ました。

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右側には、延命地蔵大菩薩と水子地蔵尊が祀られています。

カラフルですね!

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延命地蔵菩薩の御利益

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延命地蔵菩薩の十種の福、延命菩薩が除く八大怖

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霊石不動堂縁起

「本寺の開基は今からおおよそ一千余年前の弘仁14年(823)に弘法大師空海嵯峨天皇の篤い帰依を受けて京都洛南に東寺を賜った時、東寺の鬼門(東北)にあたるこの地を択んで、法城守護のため一体の不動尊を祀ったのに由来します。この不動尊像はたまたま大師がこの地に発見した一基の妙霊な石に自ら彫り刻んだものでした。大師はこの霊験あらたかなる霊石不動が穢れた凡夫の目に触れるのを憚って、石棺に納め、さらにこれを地中の井戸深くに安置したのです。

寛平11年(899)宇多天皇の御代に、ふかく仏道に帰依されていた天皇法皇となられたとき、この地を含めて京都西ノ洞院に東西に二町(約220米)南北に四町という広大壮麗なる東七条御所(または亭子院ていじのいん)をいとなまれました。その亭子院の造営にあたって宇多法皇はここに霊石不動の安置された井戸のあるのを知り、人に命じて取り出させようとしたところ、霊力のためか井中の石をみるもの悪く眼を病み恐れをなして終に果せなかったといいます。どこで法皇は勅して井戸を封じ以後何人もうかがうことを許さず、大いなる堂宇をいとなみ、これに霊石不動明王の号を賜って、日夜御念持仏としていたく尊崇されたのです。

下って室町時代、応仁の兵火に亭子院はじめこの堂宇も焼失したが井底に安置されたままの霊石不動は多くの信仰を集め、篤志家たちの手になって再び堂宇の造建をみました。その後江戸時代に入って、明和元年(1764)11月本堂の改築修理に及び、今に至っています。建立当所、本寺は宇多法皇仁和寺と縁浅からぬ関係上、同寺の直属道場として天明2年(1782)までその下にありましたが、以来西山浄土宗に属して現在に至っております。

本寺の本尊である弘法大師の一刀三礼と伝える霊石不動明王は現在も井底に封じられたままにあるため、古今誰ひとりとして直々に拝したことがなく、ために御前立として同じく不動尊立像を安置してこれを拝することになっております。世俗に高野山波切不動尊と成田不動尊と並んで、空海作の三体不動尊と称されるものです。

尚、不動尊の右に弘法大師像、左に修験道とのゆかりの歴史を物語る役行者像が安置されています。」

と書かれています。

こちらも不動明王ということで、酉年の守護神をお参りできました。

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オムロン内の稲荷社

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こちらもなんだか年代を感じます。もともとあった地主神でしょうか。

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京都タワー

青空に映えて美しいです。

伏見稲荷御旅所、平重衡受戒の地石碑

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ついでだったので、伏見稲荷の御旅所も通り過ぎてきました。

神様は今はいないからお参りはしていません。

またこちらに来られるときに来たいですね。

なんか・・いつも行きそびれているんです^^;

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たまたま地図で見つけて、こんなところにあった??と気になって見に行こうと思っていました。

八条油小路の西南角にあります。

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法然上人と重衡受戒

平家物語巻十の戒丈に、一ノ谷の合戦にて囚われの身となった平重衡が、鎌倉へ送られるまで八条堀川の御堂に据えられたとある。その時重衡は法然上人にあって死後のことを相談したいと、守護にあたる土肥次郎実平へ願い出た。その願いに応えられ、法然上人は八条堀川の御堂に居る重衡のもとへ赴かれ、浄土宗の教えを説かれ、戒を授けられたのである。これが浄土宗の宗教教誨のはじまりである。浄土宗教誨師会」

比較的新しい石碑のようですね。

 

『源平1000人』によると、平重衡(清盛の息子)は、誰からも愛された気さくな人柄だったようです。連勝連戦で活躍しましたが、一ノ谷で生け捕りされ鎌倉に連行されますが、頼朝の前で、「敵に捕らわれたことは恥ではない。早く斬罪にせよ」と言い、御家人たちを感動させたといわれています。頼朝もその重衡の器量に心を打たれたとか。その後鎌倉で軟禁状態となり、一年後、東大寺の大衆に引き渡されて斬首されました。首は奈良坂に晒されました。

 

東寺(教王護国寺)

東寺・・なんども行ってるのに、写真もたくさん撮ってるのに、記事にもほとんどしていなかったので、初詣がてら、改めて一部撮りなおしました。

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(2006.5.8撮影)

東寺は、平安京の正門である羅城門の東西に建てられた王城鎮護の寺のひとつです。

 

九条通りの南門側から撮影。歩道橋の上からだとより眺めがよいです。

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(2015.1.3 朝6時半 雪の日に撮影)

こちらも合わせてどうぞ。

kyotomichi.hatenablog.com

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南大門(2006.5.8撮影)

これはまた撮りなおしたいですね。

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御影堂(2006.5.8撮影)

この裏側が、国宝・秘仏不動明王のお参りができるようになっています。

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弘法大師の作で、大師の念持仏と伝えられています。大師が御入定のため高野山へ向かわれた際、蓮花門まで見送られた伝説がある。秘仏とされ、平安末期の第42世東寺長者、寛信師が像の光背を修繕したところ、すぐに入寂したため、以来一切御開帳がない。一方では強い御利益があると暑く信仰を集め、現在正月と毎月21日に護摩供養が行われる。」

と書かれています。

実は、記事を書くために東寺の行事を調べていたら・・ちょっとこの不動明王の夢を見たんです。どんな夢か気になる方はこちら(2016.12.16)をどうぞ。

 

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1月3日に行われる「修正会(しゅしょうえ)」。

僧侶たちがぐるりと御影堂を囲み、堂内のすべての柱に御朱印を押していくんですが、結界を張って、お堂から出てこないようにしているように思えたんです。さらに念仏を唱えるわけです。そして、この文章からしても、寛信師が修繕したにもかかわらず亡くなったわけで・・そういった念がこもった像ってことでしょ。弘法大師さん、何か強い思い(恨み?)を遺して亡くなったのかなぁ? これって、まさに怨霊供養じゃないの?? とか思ってしまったり。あくまでも勝手な想像ですよ。

だけど、こんな夢も見てしまったし、酉年の守り本尊は「不動明王」なので、しっかりお参りしておこうと思ったわけです。

 

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今は向かい側に仮御影堂ができていました。

修理してるの知らなかった!

 

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大日堂

国宝の弘法大師尊像の御開帳をしていました。

東寺の中で一番新しい建物で、もともとは御影堂の礼拝所でした。

大日如来を本尊としたので大日堂となりました。

中の壁には、蓮の芽吹きから花開くまでを描いた絵が飾られています。

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鐘楼

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不動明王

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三面大黒天

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天降石(てんこうせき)

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「古くからこの地にあったと伝えられ、江戸時代には護法石(五宝石)或いは不動石と呼称され、いつの頃からか天降石と呼ばれるようjになりました。石を撫でた手で体の悪い個所を触ると病が治ると信仰され、別名撫で石とも呼ばれています。」

と書かれています。

私はお腹が弱いので、なでなで・・w

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尊勝陀羅尼の碑

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「本来は北野天満宮の宗像社のそばに、嘉永6年(1853)比叡山の僧願海によって建てられたもの。慶応4年(1868)の神仏分離令によって、この場所に移されました。この周囲を回りながら、亀の頭や手足などを撫でて、その掌で自分の患部をさすると、万病に効くということで信仰を集めています」

最近物忘れもひどいので・・頭をなでなで・・w

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万病ぬぐい

「尊勝陀羅尼碑の下の亀に見えるのは、中国の想像上の動物の贔屓(ひいき)で竜の子とされ、重いものを背負うことを好み、甲羅に建つ石塔は永遠不滅といわれ、古来より石柱・石碑・墓の土台に用いられており、万病平癒の御利益があると信仰を集めています。

万病ぬぐいの布で贔屓を擦り自身の患部を擦ってください。傷病が治ったり効果が薄くなったと感じたら、布納めの棒に結んで納めてください。」

とあります。万病ぬぐいの布は、御影堂の前で授与されます。

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毘沙門天

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観音様があります。

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本坊

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勅使門

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菊の透かし紋に、正月ならではの幕が見え、まるでステンドガラスみたいです。

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「小子坊は、かつて西院大師堂の一面にあり、建武3年(1336)6月14日より半年間、北朝光厳上皇は、ここで政務をみることとなり、尊氏は千手堂(食堂)に移住したといわれる。現存の建物は昭和9年(1934)弘法大師一千百年御遠忌の記念事業として新築。用材はすべて木曽檜を用い、襖絵は堂本印象画伯の筆になり、昭和の代表的な建築物ということができる」

とかかれています。

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灌頂院北門 重要文化財

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東寺鎮守八幡宮

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「鎮守八幡宮は弘仁元年(810)の薬子の変にさいして、弘法大師空海八幡神をまつり、社を建立したことに始まるとされています。本尊の八幡三神像は、一本の霊木から三躯を造りだした貴重なもので、秘仏として早くから大切に伝えられてきました。南北朝時代東寺の内外で戦闘が行われたとき、鎮守八幡宮から神矢が飛んで、東寺に陣をおいた足利尊氏が勝利しました。この戦勝にちなんで、以後足利幕府は東寺を保護し、鎮守八幡宮は大変栄えました。明治元年(1868)には、南大門や八島舎とともに焼失するなどの憂き目をみましたが、平成4年(1992)に再建されました。」

まだ14年前に建ったばかりなんですね。昔からあった覚えがないなーと思っていたわけだ。

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修行大師像

 

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金堂

本尊は薬師如来日光菩薩月光菩薩

正面からお参りすることができます。

 

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八島社

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よく見ると、磐の上に建っています。

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「祭神は東寺の地主神とも、大己貴神(おおなむちのかみ)とも言われる。八島社というのは、我が国を大八洲瑞穂国(おおやしょみづほのくに)というところから起こった社号である。それゆえこの社は東寺以前より鎮座されており、弘法大師はこの神の夢想を被ってここに伽藍建立に先立ち、この神へ寺門造立成就、方位安全、法道繁盛の祈願をされ、地主神とあがめられたと伝えられる。」

これは昔からあるのは知っていたけど・・まさか東寺より前からあったとは! いろいろ知らないものですね^^;

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五重塔

高さ約55mで、木造では日本一の高さです。

寛永21年(1644)に再建したもので、5代目になります。

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宝蔵

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「創建当時は、南北一棟存在し、宝物経巻を収蔵していた。長保2年(1000)と大治元年(1126)に焼失して、建久年(1198)に文覚上人によって再建されたものが残ったとされていたが、解体修理の結果、東寺創建に近いころの建立と考えられる。」

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小野道風ゆかりの柳と伝えられています。

歌舞伎小野道風青龍硯

『柳ケ池蛙飛の場』の舞台より

と書かれています。

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慶賀門(東門) 重要文化財

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この日は時間がなかったので、省略しましたが、また宝物館や本殿の参拝も改めて行きたいと思います。

 

京セラ ライトアップ

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初めて、京セラのライトアップに行ってきました。

結構な人でびっくり。

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でもひとつ、奥に行くと・・あら?

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いろんな色があるので、とても素敵な感じです。

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ビルはクリスマスツリーになっていました。

 

火尊天満宮(かそんてんまんぐう)

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 祭神 菅原道真彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)

 

古事記』によると、

邇邇芸命(ににぎのみこと)と木花之咲夜毘売(このはやのさくやびめ)の間に、燃え盛る炎の中で三人の子供が生まれます。

火照命(ほでりのみこと)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火遠理命(ほおりのみこと)です。

このうち、火遠理命が、日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと/彦火火出見尊)であり、孫が初代天皇神武天皇になります。

 

兄の火照命は、海で仕事をしていたので、海佐知毘古(海幸彦)といいました。一方弟の火遠理命は、山で仕事をしていたので、山佐知毘古(山幸彦)といいました。

あるとき、火遠理命は、「道具を交換してみよう」と提案し、兄から釣り針を借りて釣りをするのですが、1匹も連れず、釣り針もなくしてしまいます。500本の釣り針を作って償おうとしましたが、兄は許してくれません。悲しんでいると、塩椎神(しおつちのかみ)がやってきて、海神国へ行くことをすすめたので行きました。そこで、海神綿津見神(わたつみのかみ)の娘豊玉毘売と恋に落ちます。

結婚して3年たち、火遠理命は釣り針のことを思い出します。海神が釣り針を飲み込んだ魚を見つけてくれたので、火遠理命は家に帰ることにしました。その時海神は、兄を懲らしめる呪文と海の潮の満ち引きを操る玉を授けます。火遠理命が呪文を込めて釣り針を返したので、兄は不漁続きで生活が貧しくなりました。兄は弟を攻めますが、火遠理命は潮を満たして兄を溺れさせ、助けを求めると潮を引かせて助けました。

そして、兄は弟に仕えることを約束します。

 

うーん、なんか納得いかない。弟、勝手すぎないか!? 釣り針一本にこだわる兄も兄だけど、もしそれが自分にとって大事な物、形見とかだったりしたら、他のものとは取って代われないものなんでしょうね。

 

それにしても、浦島太郎みたいな話ですね。海神が火遠理命に渡したものは、多分そのまま家に帰って戻ってこなかったら、残された娘がかわいそうだから・・ということだと思うんだけど、それをまさか使うとは!欲深いとしか思えない・・。

 

 

豊玉毘売の話はこちらにも書いています。

kyotomichi.hatenablog.com

やっぱり勝手だなぁ・・。豊玉毘売もかわいそう。

 

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中に鳥居があって、ちょっと狭苦しそう・・^^;

 

 

場所が分かりにくいので、地図でご確認ください。

綾小路・油小路の角にあります。祇園祭の油天神山があるところです。