京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

旧三井家下鴨別邸

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てっきり、季節限定の特別公開だと思っていたら・・開いてる!

行きたいなぁとは思っていたので、こちらもせっかくなので寄ってみました。

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旧財閥、三井家の先祖を祀った顕名霊社(あきなれいしゃ)への参拝の休憩所として、大正14年(1925)に、三井家10代三井八郎右衛門高棟が建築しました。明治13年(1880)に木屋町別邸の主屋を移築、玄関棟を増築、以前からあった茶室を修復して別邸としました。

戦後、旧三井家から国に譲渡され、昭和26年(1951)からは京都家庭裁判所の宿舎として使用されていました。平成23年(2011)に重要文化財に指定されました。

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正月ともあって次から次へと人が出入りするので、どうしても人がはいっちゃいました。

これは大正時代の建物。

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屋根は三井家の家紋です。

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主屋は明治初期の建物

中は1階部分しか見られなくて残念。3階は望楼になっています。

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左が主屋、右が茶室です。茶室も入れず・・。

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お庭も人が立ち入るので、一瞬の隙をついて撮影!

この部屋は人も多かったので、写真は控えました。

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左手に茶室へ続く石があります。

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主屋から見た茶室。

江戸後期の建物です。慶応4年(1868)の祈祷札が発見されたそうです。

こちらでお茶をいただきたかったなぁ。

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洗面所

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洗面所の奥にある浴室。

屋根がおもしろいですね。

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坪庭

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ついつい見てしまうのがお部屋の照明。

これもよく見ると、模様が入っています。

下鴨神社 

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下鴨神社へ行くのも通例。

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こちらの絵馬がが楽しみでw

いつも本当に美しいです。

まずは御本殿へ。

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そういえば、ちゃんと神様のこと勉強していなかった・・と思って、

改めて確認しました。

人で埋め尽くされているので、写真は省略しますが、

御本殿の祭神は、

西殿:賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)

東殿:玉依姫(たまよりひめ)

 

賀茂建角身命は、賀茂氏の祖先といわれています。

玉依姫はその子供になります。詳しくは、こちらをどうぞ。 

kyotomichi.hatenablog.com

 

さらに、干支の社があります。いつも干支しか気にしていなかったので、いったい誰をお参りしていたのだろう・・とふと疑問になりました。

 

ね 大国主神(おおくにぬしのかみ)

うし・ゐ 大物主神(おおものぬしのかみ)

とら・いぬ 大己貴神(おおなむちのかみ)

う・とり 志固男神(しこおのかみ)

たつ・さる 八千矛神(やちほこのかみ)

み・ひつじ 大国魂神(おおくにたまのかみ)

うま 顕国魂神(うつしくにたまのかみ)

 

 

あれ・・?

これ、全員同じ神様じゃないですか。

全部、大国主命の別名ですね。

下鴨神社のホームページによると、正式名は言社というそうな。

こちらもどうぞ。 

kyotomichi.hatenablog.com

 

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唐門

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唐門 江戸時代寛永5年造替

「屋根の唐破風の形式からその名があります。また欄間に葡萄の紋様が彫刻されていることからブドウ門とも呼ばれています。『古事記』や『日本書紀』に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉国から逃げ帰られたとき、追いかけてきた鬼に髪飾りを投げつけると、エビカズラの実に変わったとの神話があります。エビカズラは、野生のブドウのことで、『源氏物語』などに、えび色(ブドウ色)と記しています。また平安時代は、薬草の一種とされていました。ブドウ棚の紋様は我が国独自の意匠であり、神話が伝えているように門をくぐる人々をお祓いする意味を表しています」

と書かれています。

 

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確かに葡萄ですw

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三井神社 江戸時代寛永6年造替

東社 伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)

中社 建角身命(たけつぬみのみこと)

西社 玉依媛命(たまよりひめのみこと)

風土記山城国賀茂社の条に「蓼倉里三身社(たでくらのさとみつみのやしろ)」、『延喜式』に「三井ノ神社」とあります。奈良時代から平安時代にかけてこの辺り一帯は蓼倉郷と呼ばれていました。三身社とは御本宮の建角身命とその妻、伊賀古夜日売命、その子玉依媛命のことであり、三神がまつられています。

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西側の末社

諏訪社 建御方神

小杜社 水分神

白髭社 大伊之伎命 別名猿田彦神

平安時代の当神社社頭絵図「鴨社古図」に描かれている神社です。各社の位置は現在なおわかりません。これらの神社は糺の森を禁足地とし、御社殿前の斎庭が葵草と苔庭など自然の中にまつられる、古代神社の姿を伝える貴重な神社です。

拝殿をはじめ棟門などすべてが重要文化財となっています。」

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大炊殿は公開しているので見ることができます。

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御井(みい)

「神饌の御水や若水神事など御水の祭事が行われる所。井戸の井筒を井戸屋形。上屋を井戸屋と呼び、全体を御井と称している。

井戸屋の前に「水ごしらえ場」がある。式内末刀社の御祭神が御降臨される処との伝承の石(橋と呼ばれている)がある。毎年12月12日には御薬酒神事と若水をくむ古代様式の神事が行われる。」

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賀茂斎院御所旧跡 葵の庭(カリンの庭)

「当神社には、賀茂斎院の制が設けられていた。初代の斎王は弘仁元年(810)4月、嵯峨天皇第八皇女有智子(うちこ)内親王がト定された。賀茂斎院御所は、斎王が賀茂祭(葵祭)など年中の重要祭儀に御参向になり、期間中ご滞在になる御所であった。平安時代は御本殿の西より鴨川までが宮城であったことを、「鴨社古図」は伝えている。

建暦2年(1212)9月4日、第三十五代礼子(いやこ)内親王が御退位になるまで約400年間御座所となっていたが、文明の乱の兵火により御所棟をはじめほとんどの殿舎は消失した。その後宮域内の社殿のうち大炊殿と御井が再興された。また、

忘れめや あふいを草に ひき結び

 かりねののべの つゆの曙

 第三十一代 斎王式子(のりこ)内親王新古今和歌集

とうたわれた葉アオイが自生する「葵の庭」も大炊殿の周辺に再顕された。大炊殿では、御薬酒なども調整されていたので、庭にはカリン、ヌルデ、クチナシ、ヤマウコギ、ニシキギなどの薬草が栽培され、特にカリンの古木が有名で「カリンの庭」とも呼ばれている」

と書かれています。

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大炊殿

「神饌(お供え)の御料を煮炊きし、調理をする社殿で大炊所とも呼ばれている。入り口の土間に竈(おくどさん)があり、中の間は、お供えの材料や用具を洗ったり、調理する台所。奥の間は盛り付けをし、神前へお供えする順に並べて置く配膳棚が設けてある。

古くはこの社殿では、ご飯、餅、ぶと、まがり(お菓子)など穀物類が調理された。お酒は酒殿。魚且鳥類に贄殿で料理されていたが、文明2年(1470)6月10日乱の兵火によって焼失した。

その後、大炊殿は、現在の場所に再興された。酒殿は退転。贄殿は、供御所の一間に充てられた。」

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比良木社

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休憩処 さるや

去年はお雑煮をいただいたので、今年は申餅にしました。

下鴨神社の名物で、140年ぶりに復元されたものです。

「明治初年の法令制度化まで葵祭の申の日には、小豆の茹で汁で搗いた御餅が神前に御供され、ほんのりとはねず色に輝くこの御餅のことを都人は「葵祭の申餅」と呼んで親しんでいました。はねず色は、明け方の一瞬、空面が薄あかね色に染まる様子で、命の生まれる瞬間を表すとされています。食べることで身体を清め、元気の気をいただき、無事息災に過ごせるようにとお祈りした故事にならっています。」

 

ポルタ 聖護院門跡の襖絵

毎年楽しみにしているポルタの正月の展示にも行ってきました。

今回は狩野派

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大玄関 狩野益信筆

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お客様をお迎えする部屋なので、「松と(人を)待つ」が掛けられているんだとか。

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孔雀之間 狩野永納筆

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部屋の三方に描かれているうちの北面の絵。

孔雀は毒を持つ虫、ムカデ、サソリ等を食べるがその毒にあたらないことから解毒の作用を持つのだそう。「心の毒、煩悩をついばむ神仏の世界から使わされた鳥」だとされているのだそうです。

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孔雀之間 狩野永納筆

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孔雀之間は、お寺へ上がった使者が最初に通る部屋、使者之間。

西面で、雄、雌、子供の孔雀が描かれています。

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二之間 狩野益信筆

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上段には滝と松、三之間には九人の仙人、この二ノ間には四季の花鳥図が描かれている。

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二之間 狩野益信筆

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院内の中でもひときわ格式の高い部屋の襖絵。

④と合わせて花鳥流水図となっている。耳のような羽をつけた珍しい鳥

綬鶏」が描かれ、特徴的な胸の肉垂れから吐綬鶏とも呼ばれている。

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宸殿内陣・鶴之間 伝狩野益信筆

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聖護院宮が年中行事を執り行っていた道場を囲む形で、鶴を主題にした画が大小二十二面収まり、「群鶴図」といわれる。

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宸殿内陣・鶴之間 伝狩野益信筆

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宸殿内陣・鶴之間 伝狩野益信筆

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宸殿内陣・鶴之間 伝狩野益信筆

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宸殿内陣・鶴之間 伝狩野益信筆

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この⑧~⑩を合わせた形で、東一面を構成。

 

 

道祖神社、明王院不動堂、オムロン内稲荷社、京都タワー

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道祖神

歩いたついでに・・こちらにも寄ってきました。

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明王院不動堂

目的はこっち。新選組の屯所があったともされているところです。

すごく久しぶりに来ました。

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右側には、延命地蔵大菩薩と水子地蔵尊が祀られています。

カラフルですね!

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延命地蔵菩薩の御利益

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延命地蔵菩薩の十種の福、延命菩薩が除く八大怖

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霊石不動堂縁起

「本寺の開基は今からおおよそ一千余年前の弘仁14年(823)に弘法大師空海嵯峨天皇の篤い帰依を受けて京都洛南に東寺を賜った時、東寺の鬼門(東北)にあたるこの地を択んで、法城守護のため一体の不動尊を祀ったのに由来します。この不動尊像はたまたま大師がこの地に発見した一基の妙霊な石に自ら彫り刻んだものでした。大師はこの霊験あらたかなる霊石不動が穢れた凡夫の目に触れるのを憚って、石棺に納め、さらにこれを地中の井戸深くに安置したのです。

寛平11年(899)宇多天皇の御代に、ふかく仏道に帰依されていた天皇法皇となられたとき、この地を含めて京都西ノ洞院に東西に二町(約220米)南北に四町という広大壮麗なる東七条御所(または亭子院ていじのいん)をいとなまれました。その亭子院の造営にあたって宇多法皇はここに霊石不動の安置された井戸のあるのを知り、人に命じて取り出させようとしたところ、霊力のためか井中の石をみるもの悪く眼を病み恐れをなして終に果せなかったといいます。どこで法皇は勅して井戸を封じ以後何人もうかがうことを許さず、大いなる堂宇をいとなみ、これに霊石不動明王の号を賜って、日夜御念持仏としていたく尊崇されたのです。

下って室町時代、応仁の兵火に亭子院はじめこの堂宇も焼失したが井底に安置されたままの霊石不動は多くの信仰を集め、篤志家たちの手になって再び堂宇の造建をみました。その後江戸時代に入って、明和元年(1764)11月本堂の改築修理に及び、今に至っています。建立当所、本寺は宇多法皇仁和寺と縁浅からぬ関係上、同寺の直属道場として天明2年(1782)までその下にありましたが、以来西山浄土宗に属して現在に至っております。

本寺の本尊である弘法大師の一刀三礼と伝える霊石不動明王は現在も井底に封じられたままにあるため、古今誰ひとりとして直々に拝したことがなく、ために御前立として同じく不動尊立像を安置してこれを拝することになっております。世俗に高野山波切不動尊と成田不動尊と並んで、空海作の三体不動尊と称されるものです。

尚、不動尊の右に弘法大師像、左に修験道とのゆかりの歴史を物語る役行者像が安置されています。」

と書かれています。

こちらも不動明王ということで、酉年の守護神をお参りできました。

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オムロン内の稲荷社

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こちらもなんだか年代を感じます。もともとあった地主神でしょうか。

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京都タワー

青空に映えて美しいです。

伏見稲荷御旅所、平重衡受戒の地石碑

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ついでだったので、伏見稲荷の御旅所も通り過ぎてきました。

神様は今はいないからお参りはしていません。

またこちらに来られるときに来たいですね。

なんか・・いつも行きそびれているんです^^;

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たまたま地図で見つけて、こんなところにあった??と気になって見に行こうと思っていました。

八条油小路の西南角にあります。

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法然上人と重衡受戒

平家物語巻十の戒丈に、一ノ谷の合戦にて囚われの身となった平重衡が、鎌倉へ送られるまで八条堀川の御堂に据えられたとある。その時重衡は法然上人にあって死後のことを相談したいと、守護にあたる土肥次郎実平へ願い出た。その願いに応えられ、法然上人は八条堀川の御堂に居る重衡のもとへ赴かれ、浄土宗の教えを説かれ、戒を授けられたのである。これが浄土宗の宗教教誨のはじまりである。浄土宗教誨師会」

比較的新しい石碑のようですね。

 

『源平1000人』によると、平重衡(清盛の息子)は、誰からも愛された気さくな人柄だったようです。連勝連戦で活躍しましたが、一ノ谷で生け捕りされ鎌倉に連行されますが、頼朝の前で、「敵に捕らわれたことは恥ではない。早く斬罪にせよ」と言い、御家人たちを感動させたといわれています。頼朝もその重衡の器量に心を打たれたとか。その後鎌倉で軟禁状態となり、一年後、東大寺の大衆に引き渡されて斬首されました。首は奈良坂に晒されました。