京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

伏見散策④ 松本酒造と菜の花と・・、一切神社(いっさいじんじゃ)

f:id:kyotomichi:20170505195249j:plain

松本酒造と菜の花

撮りなおしたいなぁと思ってきました。

ただ夕方だったのでイマイチかと思いましたが、全然そんなことなくいい写真が撮れてよかったです。

f:id:kyotomichi:20170505195502j:plain

f:id:kyotomichi:20170505195638j:plain

f:id:kyotomichi:20170505200353j:plain

トトロ発見!?

f:id:kyotomichi:20170505200434j:plain

f:id:kyotomichi:20170505200454j:plain

ちょっと遊んじゃいました♪

 

 

f:id:kyotomichi:20170505200551j:plain

それから、地図で見つけて気になった一切神社に行ってみました。

「ひときり」って読むのかと思ったら、「いっさい」なんですね。

f:id:kyotomichi:20170505200639j:plain

f:id:kyotomichi:20170505200709j:plain

こじんまりとした神社でした。

祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと)

f:id:kyotomichi:20170505200742j:plain

 

伏見散策③ 寺田屋、伏見寺田屋殉難九烈士之碑、坂本竜馬先生遭難の址、寺田はま、伏見口の戦い激戦地跡、伏見長州藩邸跡、龍馬とお龍 愛の旅路像

f:id:kyotomichi:20170505133616j:plain

寺田屋に最後に行ったのが・・まだカメラがフィルムの時代^^;

いい加減撮りなおしたいなぁと思っていたのですが、すでに閉まっていたのでまた今度。

文久2年(1862)4月、尊王攘夷派の先鋒であった薩摩藩士九名が殺傷されるという明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こった所です。

東寺薩摩藩には藩主の父、島津久光を中心とする公武合体を奉ずる温和派と勤皇討伐を主とする急進派との二派がありましたが、久光は急進派の動きを抑えようとして兵千余名を率い京都へ入洛しようとしました。これを知った有馬新七ら三千余名の急進派同志は、文久2年(1862)4月23日関白九条尚忠所司代酒井忠義を殺害すべく、薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まりました。これを知った久光は藩士奈良原ら八名を派遣し新七らの計画を断念させるべく説得に努めましたが、失敗、ついに乱闘となり新七ら七名が斬られ、二人は重傷を負い、翌日切腹しました。

広場にある殉難碑は明治27年(1894)建立で、有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆になる篆額(てんがく)を掲げています」

f:id:kyotomichi:20170505133750j:plain

伏見寺田屋殉難九烈士之碑

f:id:kyotomichi:20170505134833j:plain

坂本竜馬先生遭難の址

f:id:kyotomichi:20170505134947j:plain

薩摩藩九烈士殉難の址

f:id:kyotomichi:20170505135314j:plain

寺田はま

f:id:kyotomichi:20170505135412j:plain

伏見口の戦い激戦地跡

「江戸時代、京へ向かう高瀬舟、大阪へ向かう三十石船、山城へ向かう淀二十石舟、宇治へ行く芝舟など、千百百隻にも及ぶ舟運でにぎわった伏見港の中心がこの京橋付近です。角倉了以による高瀬川開削で洛中と伏見が舟運で結ばれるとさらに発展しました。ここから蓬莱橋北詰を結ぶ南浜の一帯には大名の宿泊する本陣が4軒、家臣が宿泊する脇本陣2軒をはじめ、39軒の旅籠が軒を連ねていました。江戸幕府は伏見を伝馬所として位置づけ、問屋場には人足100人、馬100頭が常時用意され、前の宿場から運ばれてきた公用の荷物を積み替え、次の宿場まで搬送するという継ぎ立組織がありました。一般の荷物を扱う馬借も旅人や荷物でにぎわっていました。橋の南詰には三十石舟のように運上金によって幕府に公認された過書を取り締まる「過書舟番所」一般の船を検閲す、船番所、人足、駕籠、馬借の賃料などを掲示する「船高札場」などが設けられました。

幕末の慶應4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大阪から舟で伏見、京橋に上陸。ここで伏見御堂を宿陣としでもらいました。伏見奉行所に陣を置いた藩府や新選組が民家に火を放ちながら、淀方面へ配送したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けました。」

f:id:kyotomichi:20170505140729j:plain

f:id:kyotomichi:20170505140946j:plain

伏見長州藩邸跡

平成21年12月建立。これも比較的新しい石碑ですね。

 「長州藩の藩粗は毛利輝元でその父、元就は豊臣秀吉に仕えた名高い戦国武将。その領地は中国地方の大半を占めていました。伏見城造営当所の判定は『豊公伏見ノ図』や中井家所蔵の『伏見城絵図』によれば城下の西の端、大名屋敷の一角と毛利橋の東に『毛利長門守』の屋敷が記されています。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで輝元は西軍の対象として参戦して敗戦。徳川家康は戦争責任を問い輝元を隠居させ、その子秀就に周防と長門の2国、現在の山口県を与えました。

江戸時代中期の元禄12(1699)年の『御香宮文書』には中書島の新地開発を許可されたことが記されており、この時期以降に藩邸がこの場所に移転してきたと考えられます。この辺りと三栖向町の間には船大工町があり、船や船具製造に従事する人々が暮らしていました。屋敷地には通りに面して町屋が立ち並び、判定がその奥にあるような形態をしていました。

幕末の元治元(1864)年7月19日未明、長州藩家老の福原越後はここ伏見長州藩邸から武装した約500名の兵と共に、京へ進軍しようとしました。

その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発しました。福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立ち戻り、態勢を整えて打って出ましたが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃、このため伏見長州藩邸は焼け落ちてしまいました。」

f:id:kyotomichi:20170505193437j:plain

f:id:kyotomichi:20170505193505j:plain

龍馬とお龍、愛の旅路像

十石船に乗っているときに説明があり、そんなの前からあったー?と見に行ってきました。

平成23年9月に建立されていました。

f:id:kyotomichi:20170505194123j:plain

薩長同盟を締結させた直後の慶応二年(1866)、寺田屋に宿泊していた坂本竜馬は、伏見奉行所配下の捕り手に囲まれます。

この時危機を察知したお龍により、命を救われた龍馬は、しばらく伏見薩摩藩邸にかくまわれていましたが、右手の傷を癒すためここ寺田屋浜から三十石船に乗りお龍とともに九州の霧島へと旅立ったのです。」

f:id:kyotomichi:20170505194203j:plain

龍馬さん、りりしい・・w

f:id:kyotomichi:20170505194232j:plain

こんな風に川沿いに立っています。

 

伏見散策② 長建寺、辨天浜

f:id:kyotomichi:20170505104651j:plain

長建寺も数年ぶりに行きました。

こちらの雰囲気好きなんですよね。過去書いていなかったのでまとめたいと思います。

「東光山と号し真言宗醍醐派に属します。八臂弁財天(鎌倉時代後期作)を本尊とし、一般に「島の弁天さん」の名で知られています。

元禄12年(1699)、伏見奉行建部内匠頭政宇(たつべたくみのかみまさのき)が中書島を開拓するに当たり、深草大亀谷即成就院の塔頭多聞院を当地に移し、弁財天を祀ったのが起こりで、寺名は建部氏の長寿を願って名付けられました。弁財天は、音楽をもって衆生を救う女神で、福徳・知恵・財宝をもたらす七福神のひとつとして、多くの人々の信仰を集めています。毎年7月第四日曜日の夜に行われる「弁天祭」では、かつては淀川に神輿や篝船が繰り出す船渡御が盛大に行われていましたが、淀川の河流が変わったことなどにより、昭和26年を最後に途絶えました。現在は弁天祭と2月の節分祭に、醍醐派修験道の最高の神髄として柴燈大護摩修行が行われています。

また、古銭型のお守り「宝貝守り」は、江戸時代より今に伝えられています。」

 

f:id:kyotomichi:20170505131820j:plain

正面の本堂には、八臂(はっぴ)弁財天が祀られています。

f:id:kyotomichi:20170505122325j:plain

鐘楼堂

十石船に時を知らせたという梵鐘は今はレプリカです。

標準より大きいものだったそうですが、太平洋戦争で軍に供出させ、一部は大砲となってしまったそうです。

f:id:kyotomichi:20170505130629j:plain

延命地蔵、子育て地蔵

f:id:kyotomichi:20170505130733j:plain

左:飛龍大権現(ひりゅうだいごんげん)

右:摩利支尊天(まりしそんてん)

f:id:kyotomichi:20170505122755j:plain

手水(閼伽水 あかすい)

この手洗い石は、元のお寺平安時代中期の即成院の多聞院にあったものを移したものです。

また、伏見は昔は「伏水」と書き、良質の水が涌くことで知られています。これも同じ水脈になります。

f:id:kyotomichi:20170505122627j:plain

カエル

又カエルという意味から縁起をかついで、信者さんが奉納されたそうです。

f:id:kyotomichi:20170505123221j:plain

辨天型燈籠

建部内匠頭政宇が、伏見奉行所に着任したすぐの、元禄12年12月に奉納されています。御香宮、藤森神社にも奉納されているのだとか。

f:id:kyotomichi:20170505123414j:plain

石畳に茶臼もありました。

f:id:kyotomichi:20170505124728j:plain

演奏をされていました。

f:id:kyotomichi:20170505124853j:plain

中書島は秀吉が伏見城にいたころ部下の大名「賤ケ岳の七本槍」で活躍した朝散大夫中務少輔「脇坂安治」の邸宅がこのあたりにありました。中務を中国風に中書とするところから脇坂候を敬称して中書さんと呼んだのが地名の起りです。脇坂家は播州滝野の城主維新まで380年も続きました。ここ中書島は脇坂候下屋敷と呼んでいます。元禄7年(1694)まで存在したと伝えられています。殿様屋敷にふさわしく松の大僕がたくさん繁っていましたが、昭和20年(1945)戦争で手入れができずに枯してしまいました。

元禄12年(1699)時の伏見奉行建部内頭政宇播州林田播窪山城主(現在の姫路市林田町)の手によって長建寺は建立されました。彼の政策はこの門から北、宝来橋、今福橋にかけて大歓楽地としました。江戸幕府は伏見を直轄地としました。特に建部奉行在任15年間正徳4年(1714)までは伏見は日本一の大都会でした。明治に入っても伏見は軍人さんの町として大正、昭和20年敗戦まで大発展伏見市であった時代もありました。」

 

f:id:kyotomichi:20170505124837j:plain

f:id:kyotomichi:20170505130024j:plain

マリア燈籠

江戸時代幕府によるキリシタン禁制時代に流行。柳町の御所にもお出入り許可されていたお茶屋紅屋の隠れ座敷の庭にありました。東寺キリシタン大名高山右近の家は、現在の南浜小学校付近にありました。

f:id:kyotomichi:20170505130042j:plain

福富稲荷神社

f:id:kyotomichi:20170505130447j:plain

不動堂と護摩

不動明王青面金剛、水天、醍醐寺開山・聖宝尊師(理源大師)を祀っています。

赤い柵で囲ってあるのが護摩炉で、護摩木を焚く火炉です。

f:id:kyotomichi:20170505132420j:plain

長建寺のちょうど向かいあたりを辨天浜といいます。

「昔、洛南三大奇祭の一つと謳われた7月23日の夜の長建寺の大祭辨天祭は船上で行われる大柴灯護摩法要で関西一円で有名でしたが、その船渡御はこの浜から出発して宇治川へ出ました。又向側を大倉浜といい、明治22年東海道線の開通を見るまで、この浜で米が降ろされ、酒が摘まれたところです。この浜の北側は「伏見南浜港」といわれて江戸時代は参勤交代の大名の御座船を初め、三十石船、伏見舟の発着点として日本でも珍しい河港でした。

又、この付近一帯、映画のロケーションには絶好の場所であり多くの大作を生みました。昭和58年には新京都百景のひとつに選ばれています。」

f:id:kyotomichi:20170505132439j:plain

三十石船

f:id:kyotomichi:20170505133149j:plain

三十石船と月桂冠

 

伏見散策① 会津藩駐屯地跡、街並、十石船

f:id:kyotomichi:20170505000745j:plain

会津藩駐屯地跡(伏見御堂)

地図を眺めていたら・・こんなのがあるーと行ってみました。

平成21年12月にできた新しい石碑でした。

案内板によると、

「伏見御堂は桃山時代の慶長年間に東本願寺の第12代法主教如が創建しました。本堂は徳川家康の居城・向島城の殿舎の遺構を改築したものと伝えられ、大正4(1915)年に刊行された『京都府紀伊郡誌』に寺域は徳川家康の寄進によるもので蓮池を埋めたことから蓮池御坊とも呼ばれていたと記されています。ここを拠点にして教如は家康に働きかけ、七条烏丸に広大な寺領を寄進され、本願寺から東本願寺を分派独立することに成功しました。

幕末の慶應4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊訳200名が伏見京橋に上陸、ここ伏見御堂を宿陣としました。翌3日、薩摩藩との間で小競り合いをしている最中の午後4時頃、鳥羽方面から聞こえる一発の砲声に触発され、御香宮の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が火を噴き、伏見奉行所を攻撃したことから、伏見の町でも戦いが始まりました。本堂の畳を楯に鉄砲の撃ち合いがあったともいわれ、建物は大きな損害を受けたと伝えられています。そのため、創建当初、建物は東向きに作られましたが、明治18(1885)年に南向きに縮小して建て替えられました。平成2(1990)年に建物は老朽化のために取り壊され、現在は大銀杏・鐘楼・山門が残されています。」

ただ、ここ児童福祉施設になっていて、覗くのもなぁ・・怪しすぎると思って、スルーしてしまいました。どこかにあったのかなぁ。

 

f:id:kyotomichi:20170505002146j:plain

鳥せい

f:id:kyotomichi:20170505002131j:plain

月桂冠

f:id:kyotomichi:20170505002302j:plain

伏見の街並はほんと好き。落ち着きます。

f:id:kyotomichi:20170505002548j:plain

f:id:kyotomichi:20170505002933j:plain

8年ぶりの十石船。

前のはこちら。詳細はこちらに記載しているので、省略します。

 

kyotomichi.hatenablog.com

f:id:kyotomichi:20170505002857j:plain

f:id:kyotomichi:20170505003209j:plain

f:id:kyotomichi:20170505003341j:plain

f:id:kyotomichi:20170505003910j:plain

 約50分ほどの舟旅もなかなかよいものです。

穏やかなので酔うこともないですし、ゆったりとした時間が過ごせいます。

平野神社の桜

f:id:kyotomichi:20170504235639j:plain

久しぶりに平野神社へ。

ここは一度行って懲りたというか・・。

正直、屋台とビニールシートと提灯でうんざり・・。

本当は平安神宮の桜を見に行くつもりだったけど、

原谷苑で結構満足してしまったのと疲れてしまったのもあって、

シャトルバスの近場にしました。

f:id:kyotomichi:20170504235217j:plain

 

f:id:kyotomichi:20170504235432j:plain

桜はほとんど終わっていました。

f:id:kyotomichi:20170504235508j:plain

ちょうど管弦楽の演奏があって、ちらっと聞けたのはよかったです。