京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

東京② 将門塚、烏森神社

f:id:kyotomichi:20180815141925j:plain

将門塚は、大手町駅C5出口すぐのところにあります。

・・このときC5が工事中で、違うところから出たのもあって、

ナビ頼っていきました^^;

オフィス街のビルの間にあるのが不思議な感じです。

f:id:kyotomichi:20180815142346j:plainf:id:kyotomichi:20180815142404j:plain

f:id:kyotomichi:20180815142428j:plain

中は思っていたより広くてびっくり。

昔はこのあたりを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあったそうです。

 

江戸時代の寛文年間は、酒井雅楽頭の上屋敷の中庭だったそうな。

歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところでもあるとありました。

f:id:kyotomichi:20180815142731j:plain

桓武天皇5代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起こして板東八ケ国を平定、自ら平親皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛藤原秀郷の奇襲を受け、馬上陣頭に戦って憤死した。享年38歳、これを天慶の乱という。

将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これすなわちこの場所であり、将門の首塚と語り伝えられている。(一部略)」

f:id:kyotomichi:20180815143400j:plainf:id:kyotomichi:20180815143428j:plain

参道というのかわからないけど、90度に曲がっていますね。

ガラスケースで覆われて頑丈なのにもびっくり。

f:id:kyotomichi:20180815144023j:plainf:id:kyotomichi:20180815143628j:plain

塚の後にある石塔婆は、徳治2年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻したそうです。

ちょっと見落とすところでした。

f:id:kyotomichi:20180815144125j:plain

カエルの焼き物がたくさん置かれています。江戸實測図 (南)

将門の首が帰ってきたことにちなんで、「無事に帰る」という祈願をするのだそう。

 

ちなみに一応検証。

江戸實測図 (南) | 古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)

 

f:id:kyotomichi:20180815154358j:plain

 

 

f:id:kyotomichi:20180815154601j:plain

江戸時代の地図と今の地図を比較してみました。

芝公園あたりに増上寺があるのと、皇居の形で形はぴったり。

将門塚あたりをズームすると・・

f:id:kyotomichi:20180815154915j:plain

一橋殿 酒井雅楽頭、とありました。

結構大きなお屋敷ですね。

 

 

独立行政法人国 立公文書館所蔵
「新編武蔵国風土記稿」豊島郡  神明社地図

こちらも江戸時代1830年に完成したもの。

 

神明社地図

たぶん移転後の絵でしょうね。

1616年以前の移転前の地図が見たいなぁ・・。

 

さて、続いては烏森神社です。

 

f:id:kyotomichi:20180815145020j:plain

烏森神社は、新橋駅から少し歩いたところにあります。

f:id:kyotomichi:20180815145113j:plain

変わった鳥居・・。

f:id:kyotomichi:20180815145158j:plain

拝殿も同じ形をしています。

f:id:kyotomichi:20180815145941j:plain

祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、

   天鈿女命(あまのうずめのみこと)、

   瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)

 

由緒書きより

「このあたりは武蔵野国桜田村と呼ばれていて、江戸湾の砂浜で一帯は松林でした。

そのためこの地帯は枯洲の森、あるいわ空洲の森といわれていました。

さらに烏が多く集まっていたことから烏森と呼ばれるようになりました。

 

平安時代天慶3年(940)に平将門が東国で叛乱を起こした時、征討将軍 藤原秀郷(俵藤太)が武洲のある稲荷に戦勝祈願したところ、白狐がやってきて白羽の矢を与えました。その矢を持ってすみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社勧進しようとしたところ、夢にまた白狐が現れて、神鳥の群がるところが霊地だと告げました、そこで桜田村の森まできたところ、夢の通り烏が群がっていたのでそこに社頭を創建したのが起こりであるといわれています。明治6年に烏森稲荷を烏森神社と改名しました。現在の社殿は昭和46年に造営されました。」

 

 

f:id:kyotomichi:20180815145825j:plain

ちょうどこの烏森神社に参拝した日は、初午の日だったので、

この日限定の御朱印とかお守りなんかもいただきました。

(ほかの神社は、またおいおい書きます)

 

初午は2月最初の午の日で、稲荷社の祭りの日にあたります。

稲荷社=倉稲魂命だからですね。

 

  

平将門は本当に怨霊なのか?

その謎が知りたい方にはこちらもおすすめ! 

 

東京 曽祖父の旅路を辿る③ 湯島~お茶の水

f:id:kyotomichi:20180815210334j:plain

不忍池から歩けるなーとテクテクと湯島天満宮へ。

どうやら裏だったようで。。

この坂は夫婦坂というらしい。

f:id:kyotomichi:20180815210501j:plain

笹塚稲荷神社

f:id:kyotomichi:20180815210648j:plain

戸隠神社

 

f:id:kyotomichi:20180815210846j:plain

本殿

文和4年(1335)湯島郷民の勧請で文明10年(1478)に修建したといわれています。

祭神はもちろん菅原道真

f:id:kyotomichi:20180815210934j:plain

 

f:id:kyotomichi:20180815211019j:plainf:id:kyotomichi:20180815210959j:plain

f:id:kyotomichi:20180815211911j:plain

本殿の左側の通路は橋みたいにかかっているのがおもしろい。

 

f:id:kyotomichi:20180815211040j:plain

撫で牛

f:id:kyotomichi:20180815211104j:plain

宝物殿

f:id:kyotomichi:20180815211156j:plain

絵馬がえらいことに!

こんな風になっているあまりみたことない・・。

 

f:id:kyotomichi:20180815211255j:plain

泉鏡花の筆塚

f:id:kyotomichi:20180815211331j:plain

ちょっとしたお庭がとても美しかった。

向こうのビルがなければなぁ・・。

たぶん昔はなかっただろうけど。

曽祖父もこれの風景を見たのかなーと思いつつ・・。

f:id:kyotomichi:20180815211536j:plain

日時計

 

f:id:kyotomichi:20180815211736j:plainf:id:kyotomichi:20180815211647j:plain

奇縁氷人石

うーん、なんだろう?

でも古い感じがしますね。

f:id:kyotomichi:20180815212009j:plain

火伏三社稲荷社

 

f:id:kyotomichi:20180815212420j:plainf:id:kyotomichi:20180815212446j:plain

こちらが表鳥居ですね。

f:id:kyotomichi:20180815212530j:plain

扁額がかわいらしい。

ここからずっと南下していきます。

f:id:kyotomichi:20180815212635j:plain

f:id:kyotomichi:20180815212733j:plain

途中に坂がいっぱい。

こちらは実盛坂。

長井斉藤別当実盛が住んでいた場所だそうです。

平家方に味方し、寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原の合戦で、手塚太郎光盛に討たれた。

出陣に際して、敵に首を取られても見苦しくないように白髪を黒く染めていたそうな。

湯島の実盛塚や首洗いの井戸の伝説はこの実盛の心意気にうたれて実盛をしのび伝承として残ったのではないか、と書かれています。

 

南下して寄ったのが神田明神

それについてはこちらをどうぞ。

 

kyotomichi.hatenablog.com

 

さらに南下して、湯島聖堂

f:id:kyotomichi:20180815213431j:plain

徳川五代将軍綱吉が、元禄3年(1690)に創建。

孔子を祀る大成殿や学舎を建て、自ら論語の講釈を行うなど学問を奨励したとか。

もとの聖堂は4回の大火や関東大震災で焼失し、昭和10年に再建されたもの。

f:id:kyotomichi:20180815213742j:plain

大成堂

f:id:kyotomichi:20180815213813j:plain

変わった形ですね。

孔子像とかまで見る元気はさすがになく、ちら見だけ。

 

そしてさらに南下してお茶の水

f:id:kyotomichi:20180815213934j:plainf:id:kyotomichi:20180815214021j:plain

お茶の水の名前の由来ともなっている碑が見たくて。

読みづらいけど・・

慶長の昔に高林寺という禅寺があり、その庭から良い水が湧き上がるので、

将軍秀忠公に差し上げた所でお茶に用いられて大変良い水だとおほめの言葉を戴いた。それから毎日この水を差し上げるようになり、これをお茶の水高林寺と呼ばれ、この地をお茶の水というようになった。

というようなことが書いてあります。

今も水は出ていますが、さすがに飲んでいません・・。

 

夜は劇団新感線の舞台を見に行きました。

そのため時間を見ながら回っていたんだけど、ほんまによう歩いたと思います。

一応時間通りには回りました!

 

東京 曽祖父の旅路を辿る② 上野

f:id:kyotomichi:20180815180524j:plain

つづいて上野へ。

上野公園に来たのは小学生以来かもしれない。

こんなにごちゃごちゃしてたっけ?

下は砂地で広々していた覚えがあります。

f:id:kyotomichi:20180815180728j:plain

彰義隊(しょうぎたい)の墓

慶応4年(1868)大政奉還後、15代将軍徳川慶喜の一橋藩時代の側近小川興郷らが集まって、新政府軍へ反発で作ったのが彰義隊というとのこと。上野戦争で新政府軍に半日で壊滅させられたとか。

f:id:kyotomichi:20180815181143j:plain

水観音堂

寛永8年(1631)に建立。

京都の清水寺を見立てたお堂だそう。

御本尊も清水寺から遷座された千手観音菩薩

当初は上野公園内の擂鉢山(すりばちやま)に建てられましたが、工事に伴い元禄7年(1694)に現地に移築されました。

国指定重要文化財

f:id:kyotomichi:20180815181210j:plain

f:id:kyotomichi:20180815181233j:plain

木の間から弁天堂が見えます。

変わった形ですねー。

f:id:kyotomichi:20180815181558j:plain

人形供養

 

f:id:kyotomichi:20180815183954j:plain

こういう古めかしい石碑が好きです。

屋台が邪魔だな・・。

f:id:kyotomichi:20180815184316j:plain

f:id:kyotomichi:20180815184432j:plain

 

f:id:kyotomichi:20180815184500j:plain

東叡山寛永寺 不忍池弁天堂 本殿

寛永2年(1625)に創建。

不忍池は琵琶湖に見立てられ、竹生島に因んで池中に中之島弁天島)を築き、竹生島宝厳寺の大弁財天を勧請し、弁天堂を建立しました。

昭和20年の空襲で消失し、昭和33年に再建。

f:id:kyotomichi:20180815203321j:plain

右横から、池の向こうへ渡れるようになっています。

池側から見ると六角形になっています。

f:id:kyotomichi:20180815203426j:plain

ただ、このビルとボートの景観が残念・・。

 

f:id:kyotomichi:20180815185131j:plain

芭蕉

f:id:kyotomichi:20180815185229j:plain

ふぐ供養碑

 

f:id:kyotomichi:20180815185303j:plain

 

f:id:kyotomichi:20180815190025j:plain

大黒天

 豊臣秀吉公が大切に護持した大黒様を祀る。

戦災で消失したが、昭和43年に再現。

f:id:kyotomichi:20180815190140j:plain

 

五條天神社

祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)

   相殿 菅原道真

f:id:kyotomichi:20180815192753j:plain

f:id:kyotomichi:20180815192402j:plainf:id:kyotomichi:20180815192422j:plain

花園稲荷神社

祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

f:id:kyotomichi:20180815192702j:plain

忍坂

f:id:kyotomichi:20180815192824j:plain

薬師如来が祀られています。

 

f:id:kyotomichi:20180815192917j:plain

上野大仏

寛永8年(1631)、越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈る為に、土で釈迦如来像を造立。

聖堂大仏は、明暦・万治の頃(1655-60年)木食僧浮雲師により銅佛に改められた、

仏殿は元禄11年(1698)露座の大仏に仏殿が建立。

その後に火災に遭い、また大正12年の関東大震災によって佛頭がおち、佛体は解体されたが、昭和47年尊顔を旧地に迎えて再建。

f:id:kyotomichi:20180815193659j:plain

なぜかトーテムポール

f:id:kyotomichi:20180815193628j:plain

おばけ灯籠

寛永8年(1631)に佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造灯籠。

大きさは高さ6.0.m、笠石の周囲3.63mと巨大でこう呼ばれている。

同じ勝之が寄進した京都南禅寺、名古屋熱田神宮の大灯籠とともに、

日本三大灯籠に数えられる。

f:id:kyotomichi:20180815194023j:plain

上野東照宮

寛永4年(1627)に津藩主藤堂高虎天台宗僧侶天海僧正により、東叡山寛永寺境内に家康公をお祀りする神社として建立。正保3年(1646)に正式に東照宮となりました。

祭神:徳川家康徳川吉宗徳川慶喜 

f:id:kyotomichi:20180815194340j:plain

f:id:kyotomichi:20180815194425j:plain

立派な石灯籠がすごく並んでいてびっくり。約200基あるそうです。

f:id:kyotomichi:20180815194608j:plain

旧東叡山寛永寺五重塔(旧東照宮五重塔

寛永8年(1631)に上野東照宮の一部として建立。寛永16年(1639)の火災により消失、再建されたもの。

 明治時代の神仏分離令で取り壊し対象となり、宮司は手放して、寛永寺の所属であると申し出たことにより取り壊しが免れました。国の重要文化財

f:id:kyotomichi:20180815195055j:plain

銅灯籠

藤堂高虎など諸国の大名が奉納したもの。国の重要文化財

f:id:kyotomichi:20180815195741j:plain

参道の灯籠を横から見ると、また迫力!

f:id:kyotomichi:20180815195922j:plainf:id:kyotomichi:20180815200240j:plain

 

狛犬の石工、酒井八右衛門寄進の鈴

鳥居や狛犬などには酒井八右衛門、墓碑や顕彰碑には井亀泉の銘を刻んだ。

鈴の来歴は不明で、昭和30年頃珍品であるので人目につくところにと、この水屋につけられたとのこと。

f:id:kyotomichi:20180815200350j:plainf:id:kyotomichi:20180815200407j:plain

f:id:kyotomichi:20180815200431j:plain

唐門

1651年造営の国指定重要文化財

唐破風造り四脚門。

左甚五郎作の昇り竜、降り龍の彫刻、扉には若草格子、扉上には亀甲花菱、

正面上部には錦鶏鳥・銀鶏鳥の透かし彫りなど。

f:id:kyotomichi:20180815200539j:plain

f:id:kyotomichi:20180815200601j:plain

f:id:kyotomichi:20180815200616j:plain

 

f:id:kyotomichi:20180815200844j:plain

なかなか立派なので、有料で中も拝観することにしました。

f:id:kyotomichi:20180815200945j:plain

f:id:kyotomichi:20180815200926j:plain

f:id:kyotomichi:20180815201014j:plain

樹齢約600年の大楠

幹周囲約m、高さ約25m

f:id:kyotomichi:20180815201246j:plain

栄誉権現者(お狸様)

四国八百八狸の総師、奉献された大奥で暴れ追放後、大名・旗本諸家を潰し、大正年間本宮に奉献された悪業狸、他を抜く(たぬき)という縁起から強運開祖などと信仰されています。。

f:id:kyotomichi:20180815201538j:plain

透塀慶安4年(1651)造営。国指定重要文化財

社殿の東西南北を囲んでいて、上段には野山の動物、下段には海川の動物の彫刻が内外両面に200枚以上描かれています。

f:id:kyotomichi:20180815201822j:plain

社殿

慶安4年(1651)造営。国指定重要文化財

現社殿は、三代将軍徳川家光公が造営替えしたもの。

 

f:id:kyotomichi:20180815202310j:plain

本殿

f:id:kyotomichi:20180815202440j:plain

拝殿

f:id:kyotomichi:20180815203536j:plain

f:id:kyotomichi:20180815203555j:plain

彫刻がほんと細かいです。見事!

 

 

 

f:id:kyotomichi:20180815202702j:plain

時の鐘

花の雲 鐘は上野か 浅草か

芭蕉が詠んだ句は、この鐘のこと。

もともと江戸城内で撞かれていましたが、寛永3年(1626)に日本橋石町に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。

元禄以降、江戸の町拡大に伴い、上野山内、浅草寺、本所横川、芝切通し、市谷八幡、目白不動、目黒圓通寺、四谷天龍寺などにも置かれた。

初代の鐘は、寛文6年(1666)鋳造。その後天明7年に鋳直されたもの。

 

 

 

東京 曽祖父の旅路を辿る① 泉岳寺

曽祖父は愛媛に住んでいましたが、長男(私の祖父)や親戚が東京に出たので、

時々行ってついでに観光していたようです。

行くといっても、まだ新幹線もないので、愛媛から船で広島へいき、そこから電車に乗り換えて東京へ着くのが1日後という、行くまでに2日がかりです。それが約100年前の話。

日記に残していたので、何に興味があったのが知りたくてそれを辿ってみようと思いました。

 

京都編がこちら

 

kyotomichi.hatenablog.com

 

 (大正2年(1913)4月2~13日の日記)

『2日、電車にて神保町え着き下車して、吉田旅館え宿った。翌日は湯島天神湯島天満宮)、不忍池の中の瓣天様を見て、上野公園、動物園、博物館を見て浅草観音へ参詣して吉田旅館え帰って泊り、翌日九段坂靖国神社近衛師団(陸軍の軍用施設、現千代田区北の丸公園東京国立近代美術館工芸館)を廻って、二重橋桜田門を見て旅館へ帰って休み、八日は雨が降った。翌九日は高輪泉岳寺え行った。四十七士の墓(赤穂義士)、乃木像(乃木希典)を拝して旅館え帰って休み、翌十日に青山御殿(芝東証郡のことか?)、芝公園増上寺愛宕公園(港区愛宕近くの虎の門乃木希典の旧居跡があるので、これではないか?)、両国橋、回向院、国技館向島、浅草の千代館で活動写真見て、夜は吉原へ行って見た。旅館え帰って休み。(略)』

 

f:id:kyotomichi:20180815162949j:plain

今回のホテルなどの都合上もあり、私はまず泉岳寺へ。

見ているのは中門。

もともと総門、中門、山門があったけど、今は中門と山門のみ。

これは天保7年(1836)に再建され、昭和7年に大修理されたもの。

「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖道霂(いりんどうはい)による書。

f:id:kyotomichi:20180815171607j:plain

f:id:kyotomichi:20180815171630j:plain

山門

f:id:kyotomichi:20180815171815j:plainf:id:kyotomichi:20180815172122j:plain

大石内蔵助良雄銅像

浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、

のちに寄進され、大正10年12月に除幕したもの。

(ということはこれは曽祖父は見ていないな・・)

当時の風俗である元禄羽織を身に着け、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる様子を表したものだそう。

f:id:kyotomichi:20180815171733j:plain

本堂

曹洞宗の寺院。

慶長17年(1612)に門庵宗閑(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝情して、徳川家康が外桜田に創設した寺院。(現在のホテルオークラの近く)

寛永18年(1641)に消失、現在の高輪の地に移転。

赤穂藩主浅野家の菩提寺だったことから、元禄15年の義挙(1702年12月14日)の後は赤穂四十七義士の墓所としても知られている。

現本堂は、第二次世界大戦の空襲で消失し、昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築となっている。

御本尊は釈迦如来、ほかに曹洞宗の宗祖道元禅師、瑩山禅師、大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)が祠められています。

f:id:kyotomichi:20180815173139j:plain

f:id:kyotomichi:20180815173245j:plain

梵鐘・鐘楼

大正2年に作られた鐘。

江戸から明治まで使われていたものは、現在ウィーンの国立民族博物館に所蔵されています。

 

f:id:kyotomichi:20180815173419j:plain

水琴窟

f:id:kyotomichi:20180815173612j:plain

瑤池梅

義士の墓守をしていた堀部妙海法尼が瑤泉院から賜っ鉢植の梅を移植したものと伝わっている。

f:id:kyotomichi:20180815173630j:plain

血染の梅、血染の石

浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際、その地がかかったと伝えられている梅と石。

f:id:kyotomichi:20180815173949j:plain

首洗い井戸

義士が本懐成就後、吉良上野助の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したことから。

 

f:id:kyotomichi:20180815174203j:plain

義士墓入口

f:id:kyotomichi:20180815174634j:plain

大内家の墓

f:id:kyotomichi:20180815174726j:plain

入口で御線香代を支払うと、こんなに大量に!

 あまりの量にむせ返りそうになりました。

f:id:kyotomichi:20180815174708j:plain

どれがどなたの墓かはちゃんと書いてあるのがありがたいです。

といっても、ごめんなさい、よく知りません・・。

f:id:kyotomichi:20180815174937j:plain

大内内蔵助の墓

f:id:kyotomichi:20180815175106j:plain

浅野長矩公の墓

f:id:kyotomichi:20180815175212j:plain

浅野長矩公夫人の墓

 

お墓で出会った83歳のおばあちゃん、50年ぶりに来たそうです。

その時は今みたいな石が敷かれていなくて土の上にお墓があったとか。

曽祖父が見たのもそんな風景だったのかなと思いを馳せることができました。

ちょうど来週が義士祭り・・見たかった。

 

 赤穂義士ゆかりの地は、大阪や京都にもあります。

 

kyotomichi.hatenablog.com

 

kyotomichi.hatenablog.com

東京① 神田明神、天野屋

東京には年何度か行っているので、ついでにあちこち廻ったりしています。

効率よく回りたいので、実はこの三か所(神田明神、将門塚、烏森神社)全部違う日に行っています^^;

将門関係をまとめたくて、ようやく・・です。

ちなみに京都編はこちら。

kyotomichi.hatenablog.com

 

 

f:id:kyotomichi:20180815111310j:plainf:id:kyotomichi:20180815112734j:plain

 

 

f:id:kyotomichi:20180815112143j:plain

 扁額や由緒書きにもあるように、正式名称は神田神社といいます。

祭神:一の宮 大己貴命(おおなむちのみこと) 

   二の宮 少彦名命(すくなひこなのみこと) 

   三の宮 平将門命(たいらのまさかどのみこと) 

 

ということで、将門は主祭神ではないんですよね。

京都編に記載しているので、省略しますが、

天平2年(730)に大手町・将門塚周辺に創建され、その後延慶2年(1309)に将門公が合祀されました。元和2年(1616)に江戸幕府により江戸城から見て表鬼門守護の地へ遷座しました。

 

随神門四方の欄間には、四神(東:青龍、西:白虎、南:朱雀、北:玄武)が彫られ、中央には大国主之命の神話が描かれています。

 

f:id:kyotomichi:20180815113831j:plain

入ってすぐ左手には大きな大黒天。

高さ7m、重さ約30tの日本一大きい大黒天像です。

 

f:id:kyotomichi:20180815114054j:plain

そしてえびす様

どちらも新しいですね。

f:id:kyotomichi:20180815115558j:plain

御本殿

f:id:kyotomichi:20180815120252j:plain

境内は結構広くて、摂社・末社だけでなく碑もたくさんあり、ぐるっとまわりました。

 

f:id:kyotomichi:20180815122043j:plain

鉄製天水桶

神田あるいは新川辺りの江戸の酒屋が世話人となり、「摂州灘大石」と「筋違外」の酒屋により、弘化4年(1847)に奉納されたもの。

f:id:kyotomichi:20180815122526j:plainf:id:kyotomichi:20180815122554j:plain

石獅子

区内に残る数少ない江戸期の石造物のひとつ。

大正2年(1923)の関東大震災で獅子山は崩壊し、子獅子は紛失。親獅子二頭は債権された獅子山に据えられたとのこと。

f:id:kyotomichi:20180815122858j:plainf:id:kyotomichi:20180815123205j:plain

銭形平次八五郎の碑

野村胡堂の『銭形平次捕物控』の主人公平次は、明神下の元の台所町ということになっているそうです。昭和45年建立。

f:id:kyotomichi:20180815123307j:plain

国学発祥の地碑

f:id:kyotomichi:20180815123412j:plain

阿部筲人(しょうじん)の句碑

f:id:kyotomichi:20180815123555j:plain

祖霊社

f:id:kyotomichi:20180815123701j:plain

籠祖神社

完成7年(1796)鎮座。

祭神:猿田彦大神塩土翁神

塩土翁神は、竹工の神、塩の神、又船の神として古事記に、山幸彦が兄海幸彦から借りた釣針を失い、お困りの時、無間勝間の小舟(隙間なく編んだ竹籠の舟)を作り与え、海神の宮に渡りなさいと教え得られた神です。

 

他、

八幡神社 祭神:誉田別命 ほんだわけのみこと(応神天皇)、

富士神社 祭神:此花咲耶姫命 このはなさくやひめのみこと、

天神社 祭神:菅原道真命、柿本人麻呂命、

大島神社 祭神:日本武尊命、

天祖神社 祭神:天照大御神

諏訪神社 祭神:建御名方命 たけみなかたのみこと

が合祀されています。

f:id:kyotomichi:20180815124708j:plain

浮世絵系日本画家の水野年方顕彰碑

正六角形の燈籠をかたどった小塔。

f:id:kyotomichi:20180815125131j:plain

三の宮鳳輦奉安庫

 

f:id:kyotomichi:20180815125155j:plain

末広稲荷神社

祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

元和2年(1616)頃のもので、社殿は昭和41年に再建。

f:id:kyotomichi:20180815125333j:plain

三宿稲荷神社

祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

創建不詳。12代神主の邸内に祀られていた内山稲荷と合祀されたそうです。

 

金刀比羅神社

祭神:大物主命(おおものぬしのみこと)、金山彦命(かなやまひこのみこと)、

   天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)

天明3年(1783)に武蔵国豊島郡薬研堀(現在の東日本橋2丁目旧両国町会)に創建。

 

社殿は昭和41年に再建。

f:id:kyotomichi:20180815130055j:plain

水盤

文化2年(1805)に伊勢屋治兵衛により奉納

f:id:kyotomichi:20180815130252j:plain

浦安稲荷神社

祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

天正年間(1573~)に勧請、寛政9年(1797)に社殿が造営。

その後天保14年(1843)に神田神社境内に遷座

後の戦火で復興できなかった神田稲荷社五社を合祀。

f:id:kyotomichi:20180815130544j:plain

江戸神社

祭神:建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)

大實2年(702)武蔵国豊嶋郡江戸の地(今の皇居内)に創建された大江戸最古の地主の神。

鎌倉時代は江戸氏の氏神として崇敬。

慶長8年(1603)江戸城の拡張により、神田神社と共に神田台へ遷り、更に元和2年(1616)にここに遷座された。

江戸時代中期以降は牛頭天王と称され、明治元年(1868)に須賀神社と改称、更に明治18年(1885)に江戸神社と復称された。

 

 

f:id:kyotomichi:20180815130646j:plain

江戸神社本社神輿 

昭和33年に作られたもの。

公称台輪四尺三寸、重量千貫で現在日本一の大神輿です、と書いてあります。

f:id:kyotomichi:20180815130715j:plain

f:id:kyotomichi:20180815131716j:plain

力石

若者たちが力試しに用いた石。

伝承の一つとして道切説というのもあり、昔は村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、まじない等であったともいわれています。

f:id:kyotomichi:20180815132026j:plain

角田竹冷の句碑

白うおや はばかりながら 江戸の水

f:id:kyotomichi:20180815132145j:plain

大伝馬町八雲神社

祭神:建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)

江戸時代には祇園牛頭天王社一の宮)と呼ばれていた地主神。

 

f:id:kyotomichi:20180815132949j:plainf:id:kyotomichi:20180815132931j:plain

左右の天水桶は、江戸の問屋仲間のひとつ太物問屋(反物などを扱う商人)仲間が天保10年(1839)に奉納したもの。高さ1.4mで一対のもので、台座は蓮弁を模した形になっています。

f:id:kyotomichi:20180815132854j:plain

小舟町八雲神社

祭神:建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)

江戸城吹上御苑より神田神社と共に遷座

f:id:kyotomichi:20180815133053j:plain

魚河岸水神社

祭神:弥都波能売命(みつはのめのみこと)

徳川家の武運長久と併せて大漁安全祈願をするために、武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座。

元和年間(1615~)に神田神社と共にこの地に遷り水神社と改称。

明治24年(1891)に魚河岸水神社に改称した。

f:id:kyotomichi:20180815133816j:plain

おみくじが獅子舞なのがかわいい。

f:id:kyotomichi:20180815133848j:plain

楽殿

f:id:kyotomichi:20180815134008j:plain

神田明神近くの天野屋でほっとひといき。

f:id:kyotomichi:20180815134517j:plain

雰囲気もよかったw

f:id:kyotomichi:20180815134054j:plain

f:id:kyotomichi:20180815134119j:plain

あまざけとぜんざいを頼みました。

疲れていたのもあって、癒されました~。