京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

7月14日 祇園祭 蟷螂山

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今年の山一番は蟷螂山!

ということもあって、今年はここの粽を購入しようと決めていましたw

朝10時について、まずは恒例のおみくじ。

そして粽は、数量限定の金の御幣粽をゲットしました。

通常1000円ですが、こちらは3000円になります。

 

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一日持ち歩かないといけなかったので、取り急ぎカフェで撮影(笑)

家に帰ると、もちろんしんなりしていましたが、

木なので、水につけると復活!

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人込みにいたのもあって、御幣がぁ・・。

どうしてもくせが直りませんでした。

金が美しいです、ご利益ありそうw

 

ようやく復活!

ここずっとパソコンの調子が悪く…、

少し書いては固まり、再起動をずっと繰り返していました。

 

さすがに写真いれすぎのせいか?

もしかしたらこのブログの写真が多いせいでで固まるのか?

とか考えつつ、記事数を減らして見たりするものの、おまり変わらず。

さすがにこれはダメだと、メモリを購入。

最近はコンパクトなのがあるんですね。

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電源付きのハードディスクかメモリスティックをいくつかを買わないといけないとばかり思ってました。

 

これなら場所も取らないし、1テラ入るし助かります!

で、写真移動すること…10時間!!

これもまた途中で何度も止まっては再起動を繰り返していて、少しずつ移動させてたからなんですが(;_;)

 

そのあと、少し快適かと思っていたけど。

また何度も止まる。画面が真っ暗になるんです。マウスのポインタだけ表示されて、アイコンすらない。で、強制終了。

も、キーが効かずに電源ブチッ状態。

さすがにこれはヤバイ、

「ええぃ、初期化だっ!」

と思い立ち、この土日かけて頑張りました。

バックアップにこれまた時間かかり…。

写真移動していた分は楽だったんだけど。

念のための全体のバックアップにかなりかかりました。

初期化して、メールやプリンター、ネット環境の設定、ソフトのインストールをし終えてスッキリ、快適♫

 

そのおかげでようやく祇園祭のまとめも書き直せました(;_;)

去年の祇園祭も後半バテて書いてないし(笑)、他アップできていないものもたくさん…。

またいろいろ書きたいと思います。

スマホもこの春に新しくしたのもあって、スマホからも見やすくなりました。

他の方のブログも、これらのことで全然見れてなかったので、ほんと初期化万歳です。

 

 

 

7月1日 祇園祭 大船鉾の龍頭展示

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今年もやってきました、祇園祭

はい、今年もまた追っかけます。

毎年、今年は控えめに・・と思うのですが、

コンチキチン♫を聞くと、いてもたってもいられなくなってしまいます^^;

 

吉符入りはさすがに見れませんが、

今年は大船鉾の龍頭が、大丸前に1日~13日まで飾られるということで、

早速行ってきました。

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ガラスなので、どうしてもこれが限界・・・。

 

赤穂義士 四十六士遺髪塔跡、小野篁と紫式部の墓所

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堀川通上御霊前通の水火天満宮から北上、

墓所へ行く途中の東側に、赤穂義士 四十六士遺髪塔跡がありました。

昨年だったか(現時点でアップできていませんが)、東京の品川駅近くの泉岳寺赤穂浪士が葬られている)に行っていたのもあって、なんでこんなところに? 四十七人じゃなかったっけ?と足を止めました。

ちなみに大阪の天王寺にもあります。こっちもなんでだったんだろう?

ツアーで回っただけで、あまり突っ込んでいませんでした。

kyotomichi.hatenablog.com

 

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これによると、

「元禄十五年(1702)十二月に、赤穂浪士吉良邸に討ち入本俵を遂げし後、翌年2月4日に義士四十六人が切腹する二日前に、瑞光院院主の使僧、宗海禅師は細川、松平、毛利、水野の四家大名に預けられた四十六人から髷の髪をもらい受けた。帰京後、大石内蔵助良雄(おしたか)の遺志により、主君浅野内匠頭長矩候の墳墓の傍に、四十六士の遺髪を甕の器に納めて梅、その上に遺髪塔として石塔一基を建立した。石塔には四十六人の姓名と戒名が刻まれている。義士のうち寺坂吉右衛門切腹していないため、刻名されていない。この遺髪塔は昭和37年(1962)、当地より山科に移転した瑞光院において現在も祀られている。

 

瑞光院は、慶長18年(1613)浅野長政候の旧蹟地に因州(島根県八頭郡)若櫻城主山崎左馬允家盛候が大徳寺の琢甫宗林和尚を開基として創建された。明暦3年山崎家断絶後、第二世陽甫和尚が播州赤穂城主浅野内匠頭長矩候の内室瑤泉院と俗縁にあり、且つ浅野家遠祖の旧蹟たる等の因縁により、長矩候江戸城において吉良上野介への刃傷におよび浅野家は断絶となる、同年8月大石良雄当院に長矩候の衣冠を埋め、亡君(冷光院殿)の石塔を建立し、以後墓参の都度同志密議の処とした。瑞光院由緒書きより」

 

・・なるほど、山科の瑞光院はもともとここにあったんですね!

そして、1人姿を消して切腹してないから四十六人だったのか。

山科の義士まつりも前に追っかけているんですが、記事書いていませんでした。

また気が向いたら書くかも。

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ここに瑞光院があったときの、大石良雄の墓と四十六士の遺髪塔の写真があります。

 

さて、さらに北上していくと、小野篁紫式部墓所があります。

北大路堀川下がったところ、西側ですね。

 

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まっすぐ行くと、右に折れていて、さらに左の突き当りに石碑、右手に紫式部の墓になっていました。

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右が小野篁の墓です。式部に比べると小さいな・・。

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右手に石碑があり、漢字ばかりでよう読みませんが、

慶応四年(明治5)とか、北が篁公、西が紫式部と言われている、というような文面がありました。

 

室町時代初期に成立した源氏物語の注釈書『河海抄(かかいしょう)』に、

 

式部墓所雲林院。白毫院の南、小野篁西也。

 

という記載があります。

雲林院の南とがありますが、実際は東にあります。

筆者は四辻善成で、1350年頃に完成されたものになります。

紫式部平安時代中期頃(1000年前後)、小野篁(802-853)

約350年後に書かれたもので、信憑性は低いですね。

それに、200年もあとの式部が篁と並んでいるのもおかしな話ですよね。

 

篁は井戸を使って冥府とこの世を行き来しており、閻魔大王の側近だったという説も残っています。善良な行いをした人が早死にすると、閻魔大王に伝えて生き返らせてくれたとか。

 

建勲神社の麓、千本鞍馬口通に、引接寺(いんじょうじ) 通称千本えんま堂があります。ここも篁ゆかりの寺で、紫式部の供養塔があります。

紫式部は人々をたぶらかすようなものを書いたということで、地獄に落ちたという説もあります。そんな式部を救ってもらおうと、式部のファンが篁の隣に墓を作って供養したという話もあるそうです。

 

 

 

夏越の祓 水火天満宮(すいかてんまんぐう)

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なんとなく気になって行ってみたかったところですが、

なかなか堀川通りに行くことがなく、夏越の祓のついでにようやく行ってきました。

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天満宮といえば、もちろん祭神は菅原道真ですね。

「由緒書・家系図には、〈洛陽一条下り松の霊地に、雨水雷火の難を消除の守護神として菅公を祭る為に、延暦寺の尊意僧正に勅命ありし、日の本最初の天満宮の勧請の最初なり〉とある。(略)延長元年(923)年六月二十五日、水火の社天満大神という神号の勅許を醍醐天皇から賜り、水火社天神天満宮として、菅原道真公の神霊を勧請し建立された。

水火天満宮が日本最初の天満宮と号する所以は、右記のように天皇の勅命にて神号を賜り、天満宮としたこと、及び初めて道真公の神霊を勧請したことによる。

文明4年(1472)9月10日、第百四代後御門天皇行幸があり、例祭の火を10月10日(旧9月10日)と改めた。その後、第二慈誠会大戦など幾多の変遷を経て、昭和25年(1950)、堀川通が重要幹線道路となる拡張工事の際、堀川通りを挟んだ西側の上天神町から現在の扇町に移転した。」

 

日本初の天満宮??太宰府天満宮じゃなくて??

ちなみに太宰府天満宮は延喜19年(919)建立となっています。同じく勅命を受けたとあります。北野天満宮は天暦元年(947)建立。

日本初なら、もっと大きくてなっていてもよい気がするけどな・・。

市内初ってことじゃないのかな?なんていう疑問も抱きつつ。

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これは、夕方からの神事用でしょうね

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はい、夏越の祓の茅の輪くぐりです。

人もいないし、静かでよいです。ただ・・蚊が多かった!

<唱え言葉>

 

水無月の夏越の祓する人は 千歳の命のぶというなり

思う事みなつきねとて麻の葉を きりにきりても祓いつるかな

蘇民将来 蘇民将来

 

祇園祭と同じように蘇民将来なんですね。

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茅の輪くぐって、左手が御本殿。参道から90度曲がっていますね。

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六玉稲荷社

祭神:六玉稲荷大明神

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秋葉社

祭神:火之迦具土神

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白太天社

祭神:度会春彦

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左:玉子神石

右:金玉龍王、玉姫弁財天、福寿大明神

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金龍水

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出世石

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登天石

「延期3年(903)菅原道真大宰府の地にて59年の生涯を閉じた。その死後都では天変が相次ぎ人々は道真の怨霊のせいだと信じ込み、時の醍醐天皇延暦寺の法性坊尊意僧正に、祈祷を依頼し、勅命を受けた尊意は早速に山を下り、宮中に急いだ。途中賀茂川まで来ると突如として水位が増し町へと流れ込んだ。

尊意は騒がず数珠をひともみして川に向かって、祈りを捧げた。すると不思議なことに水位は下がり、真っ二つに分かれ水流の間にひとつの石が現れ、その上に道真の例が現れ、やがて雲の中に消えていった。その石を供養し、登天石となづけた」

とあります。

これもまたすごいエピソードですね。

また桜の時期にも行ってみたいと思いました。