地図で「頼政道」というのを見つけて、
醍醐寺に行くときに行こうと決めていました。
遠回りしなきゃいけないかと思ったら、
醍醐寺の中から行けるのがわかってホッ。
仁王門の手前を左に行くとあります。
先は長ーいっ。
ひえぇ・・。
でもまだ階段ゆるやかだったのと、
人がいたのでよかったです。
この階段途中に頼政道跡の碑があります。
「源頼政が、治承4年(1180)平氏を打倒しよと後白河法皇の皇子以仁王を奉じて挙兵しましたが、平氏に追われて大津市の園城寺(三井寺)から奈良を目指して宇治に通りぬけた間道で、頼政道とよばれています。頼政は平氏との宇治川の合戦に敗れて平等院で自害しました。「源平盛衰記」に、「醍醐路に懸かりて木幡の里を伝いつつ宇治へ」と記されています。
(一言寺→日野ひげの辻→木幡→宇治)」
私大勘違い・・。てっきりこの階段の道かと思ったら、
これを横切る道だったんですね^^;
道理で地図と合わないと思った。
せめて横向きに碑を立てといてー!(下の用水路参照)
またリベンジか・・。
頼政に関する記事はほかにもいろいろ行って書いていますので、
ブログ内検索してみてください。
源氏の事を調べていたら、頼政は平氏についていたんだけど、頼朝が幽閉されていたこともあり、情報収集しながら、機会をうかがっていたんじゃないかと思っています。
頼朝挙兵と同時にこちらも動いているし、絶対に影の立役者!
そう思うと思い入れも深くなり、関連場所を行くようになりました。
(あ、平等院の碑や亀岡のもあるんだけど、まだ書いてなかった。また書かねば)
祭神:菅原道真
大巳貴命(おおなむちのみこと)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
「菅原道真公の死後(903)墓(衣裳塚)が築かれ、949年に勧請された。現在の本殿は1821年に再建されたものである。
三間一面檜皮葺の建物で柱や梁には胡粉下地の上に岩絵の具で彩色を施し、極彩色の文様が描かれ、脇障子には、鯉の滝登りや獅子の子育てを題材とした透かし彫りの幕板がはめ込まれるなど、市内有数の装飾に富んだ造作が見られる。
石段を上がりきった右手にある菅公衣裳塚は、公がこの地に遊覧の折、死後はここに墓地を築くことを、醍醐寺開祖の聖宝理源大師と約束を交わされた。そして管公の死後、醍醐寺一世勧賢座主が、大宰府から衣裳や遺物を持ち帰り、埋めたと伝えられている。
東風ふかば にほひをこせよ 梅の花
主なしとて 春な忘れそ /菅原道真
手向けして 春や行くらし ちはやぶる
長尾の宮の 花のゆうして /前中納言定家 」
天満宮には欠かせない牛さん。
えらいところにいてはります。
本殿
春日社、蛭子社、住吉社
八幡宮、稲荷社
本殿の左側の山道。何人かここから行き来されていましたが、
一人じゃ無理ーっ。
衣裳塚略記
「菅公此の地(醍醐)に遊覧の折、醍醐寺開創の聖宝尊師に曰く、吾薧する後、墓を此の地に葬るべしと。その後(延喜3年)3月25日大宰府において薧せられし後、使者を遣わし、菅公の衣裳や遺物等を持ち帰り、醍醐寺第一代座主勧賢僧正は先師の約束を違えず、墓を此の地に築かれた。今この墓の上には宝篋印塔が祀られ、俗に衣裳塚という。傍の碑に
東風ふかば にほひをこせよ 梅の花
主なしとて 春な忘れそ
の歌が刻まれている」
この右手にも山道への道がありました。
洛東用水路跡
「此処はかつて、洛東用水と呼ばれた、灌漑用水路でした。醍醐から日野にかけての水田は河川の水とため池の水で養われてきましたが、干天が続くと水不足に見舞われてきました。
大戦中の昭和17年(1742)から昭和20年(1945)にかけて、小野まで来ていた琵琶湖疏水を取り入れた用水路を日野まで延伸(5.24キロ)までし、灌漑用水を賄ってきました。ここの標高は約42米で、琵琶湖の水面標高は約84米です。(京都市水道局刊(微差こそ水の百年より)」とありました。
これを見たときに、頼政道も気づけばよかった・・。
見たことは見たので、心に留めておこう。
こことは違い、草むらになっていました。