明日の祭りのための下見も含めて、行ってきました。
夜は宵宮があるのだけど、目的は剣鉾なのであえて昼間です。
ちなみに神幸祭は5月1日で、鳳輦(ほうれん)や神輿が区域を練り歩きます。
下御霊神社についてはこちら
漆塗螺鈿装 鳳輦形神輿
拝殿の北側にある倉庫で、見ることができます。
「鳳輦は碾王の乗物である乗輿の中で、第一に位置するもので、祭礼においては神霊を還し乗せるもっとも重要な祭器である。
江戸時代、京都において神輿は金道装方形が主流となり、特に寛政年間以降、装飾が複雑・重厚となり舁き手が多数必要となっていった。
(略)当社においても大宮・若宮神輿が存するも最初の鳳輦を明治19年に新造したのである。ただ近世の形式(台輪の部分が階段になっている)であった為、有職を重んずる観点からすれば当社の御祭神の神霊の乗り物にそぐわない感もあった。現在の鳳輦は、大正12年に有職故実家でもあった当時の社司 出雲路通次郎が、平安から鎌倉初期の形式に即して設計監督して京都の名工たちに嘱して新造したものである。
現在毎年5月1日神幸祭に神霊を還し、還幸祭当日(5月第3または第4日曜日)には鳳輦列と神輿列巡行を斎行している。」
大宮神輿
「宝永6年(1709)東山天皇のご寄付になる金銅装方形神輿で、安永・天保・大正年間に修理を重ねる。
台輪(土台)の長さ五尺六寸(170cm)という全国でも最大級とされる。
天保年間に加えた四神額、鏡額の金具は精緻を極め、幕末京都金工の粋である。」
若宮神輿
「宝永以降に狭い道路を巡行するために新造し、寛保3年(1743)には改造を加えている。
台輪(土台)は四尺七寸(142cm)でこれだけでも堂々とした金銅装方形神輿の体裁を整えている。」
猿田彦神輿
「明和7年(1770)後桜町天皇他の御寄付になる髤漆装向唐破風造という珍しい形式である。腰輿から発生した各の低い神輿である。神幸列の先導役として延宝4年(1676)明正天皇の御寄付になる猿田彦神面を収める。」
さて、肝心の剣鉾が見つからない・・うろうろしても疲れるだけなので、社務所で聞きました。
その年によって違うそうですが、今年の場所を聞きました。
結構離れていてびっくり。これは聞かないとたどり着けません^^;
最後に地図を載せますね。
菊桐鉾
「江戸時代は、下御霊神社の祭礼に十二本の鉾が出ていたが、元治の兵火で四本を失い、現在は八本の鉾が保存されている。この鉾は、宝永2年(1705)、東山天皇の寄進によるもので、以来毘沙門町で守護している。鉾名となる錺(かざり)は菊花と五七桐で、江戸時代の吹散も原型のまま保存されている。」
枝菊鉾
祇園祭の山鉾を思わせるほど装飾がすごいです。
そしてここから歩くこと30分・・^^;
(「このあたり、行ったらわかる」としか聞いてなかったので、探し回ったのもありましたが)
菊御鉾
ここのは時代を感じますね。
こちらでほかの2か所の場所も確認できました。
この南側の駐車場にもあるとのことで、そこも見てきました。
これは聞いてないと気づかなかったです。
扇釼鉾
会所の人に聞くと、これでおうぎと読むらしいです。
扇の形が見事!吹散も色鮮やかですね。
葵鉾
最後はおうちの中でしたが、誰もいらっしゃいませんでした。
青が下御霊神社、ピンクが剣鉾の会所場所になります。
結局全部見て、2時間くらいかかりました。