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京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

平安京、保元・平治の乱の激戦地となった御殿

 

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参考:日文研 花洛往古図(内容年代:平安時代末期-鎌倉時代)
かつて平安京大内裏のまわりには、貴族の邸宅が点在していました。 そして、後白河天皇崇徳上皇の激しい争いが勃発しました。 それが保元・平治の乱(1156-1160)です。

 

 

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平安時代の地図を現代の地図に置き換えるとこんな感じになります。
烏丸三条周辺に密集しています。
時々通りながら、平安時代のことを考えると不思議な気持ちになります。


保元の乱 1156年7月5~11日】
勝者:後白河天皇藤原忠通信西平清盛平重盛源頼朝源頼政
敗者:崇徳上皇藤原道長平忠正、平家広、源為義源為朝

崇徳上皇らは、白河北殿に逃げ込み、敵襲を迎え打とうとした。
一方後白河天皇側が高松殿へ集結。高松殿だけでは狭く、東三条殿にも集まった。
そして、源義朝ら200騎、平清盛ら300騎、足利義康ら100騎他、白河北殿を急襲。
崇徳上皇は配流、多くの武将は処刑される。


平治の乱 1159年12月9日-1160年3月】
勝者:後白河上皇二条天皇信西平清盛藤原忠通源頼政
敗者:藤原信頼源義朝源義平

藤原信頼源義朝らは、平清盛の不在を狙って、三条烏丸殿を襲撃し、後白河上皇二条天皇を幽閉。信西は先に逃亡。清盛が帰還し、後白河上皇二条天皇を救助。
二条天皇六波羅の清盛邸へ、後白河天皇仁和寺へ避難。大内裏の待賢門で平重盛源義朝源義平(義朝の嫡男)と激戦。逃走した信頼も捕えらて斬首される。


東三条殿(現在の京都市中京区押小路通釜座 西北角の付近)
藤原氏の邸宅。
看板には、こう書かれています。
東三条院の址はこの辺りを中心として、二条通御池通新町通西洞院通に囲まれた東西約130メートル、南北約280メートルに及ぶ細長い地域をいい、平安時代に隆盛を極めた藤原氏の邸があった所である。
はじめ醍醐天皇皇子重明親王の邸であったが、平安時代初期に藤原良房が譲り受けた後は、藤原氏出身の女子で皇妃、母后となった人が移住する慣わしとなっていた所である。
藤原兼家東三条殿と称した)の姉娘超子は冷泉天皇の女御となって三条天皇を、妹娘詮子は圓融天皇の女御となって一条天皇を、それぞれここで産んでいる。
殊に詮子は一条天皇の即位後、皇太后となり出家して東三条院と称した。
その後邸は藤原道長に引き継がれたが、邸内は尊美を極め、庭内池には龍頭船を浮かべて、天皇行幸を仰ぎ、公家の遊宴が盛んに行われた。その華やかな様子は「本朝文忰(ほんちょうもんずい)にも記されているが、邸は安元3年(1177)に火災で焼失した。」

 

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●高松殿京都市中京区姉小路通新町西入津軽町)
源高明(みなもとのたかあきら)の邸宅。
看板には、こう書かれています。
「高松殿は、醍醐天皇の皇子、西宮左大臣と呼ばれた源高明(914-982)の邸宅で、「拾芥抄」に「姉小路西洞院東高明親王家」と記されている。
高明の娘、明子は、当所に住して高松殿と称され、後に藤原道長の室となった。その後、三条天皇の皇子小一条院の御所ともなったが、文献では治安元年(1021)と更に百年後の保安元年(1120)に焼亡記事が見える。
院政期の久安2年(1146)には、鳥羽上皇の命により新造され、造営には後に大蔵卿となった長門守源師行が当たっている。久寿2年(1155)には、後白河天皇が当所で即位し、保元2年(1157)まで内裏となり、高松内裏とも称された。
保元の乱(1156)の際には、崇徳上皇方の白河北殿に対して、後白河天皇の本拠地となり、源義朝平清盛らの軍勢がここに参集して、白河の地へ攻め込んだことはあまりにも有名である。その後、平治の乱(1159)に御所は消失するが、邸内に祀られていた鎮守社高松明神は現在も高松神明神社として残る。」

またここの神明地蔵尊は、寛政6年(1794)紀州九度山の伽羅陀山、真田庵より拝領したもので、智将として有名な真田幸村の念持仏です。「幸村の知恵の地蔵尊」として信仰されています。

 

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●三条烏丸御所址京都市中京区三条通烏丸西入南側)
株式会社千總、三井ガーデンホテル京都三条伊右衛門サロン前

三条烏丸殿・三条桟敷殿ともいい,三条南殿の名で総称することもありました。
本「院政・源平年表帖」(株式会社ユニプラン著)によると、
藤原(徳大寺)実能(1096~1157)が、鳥羽法皇に献じられて御所となりました。
平安時代の地図では、「白川院御所」となっています。

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●三条西殿京都市中京区三条通烏丸西入北側)

スターバックス前にあります。

姉小路通~三条通烏丸通室町通の一角は、平安時代の表示では[左京三条三坊十二町]にあたる。この付近は、平安時代後期には皇族や有力貴族の所有になる高級邸宅街であった。特に十二町は白河法皇鳥羽上皇、待賢門院の御所として、院政時代の政治の中心となった「三条西殿」の遺跡として知られている。」

 

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●三条東殿址(中京区姉小路通烏丸東入南側(新風館前)
白河院邸。白河院の死後、白河院の寵愛を受け、鳥羽上皇の中宮であった待賢門院が伝領。
平治の乱(1159)で焼失したが再建され、1221年まではあったとされています。
平安時代の地図では、「崇徳院御所」となっています。待賢門院の息子が崇徳院にあたります。

看板には、こう書かれています。
「現在の三条烏丸交差点の東北に一する方四十丈(約120メートル)の地は、
古の三条東殿の遺址にあたっている。
十一世紀の初め、ここには伊藤守藤原濟家の邸宅があり、それは子孫の宮内郷藤原家通に傳えられた。崇徳天皇の天治2年(1125)、白河法皇はこの地を得られ、ここに見事な殿舎を造営し、院の御所とされた。法皇の崩後、鳥羽上皇は三条東殿をやはり院の御所とされ、后の待賢門院と共に住まれ、それな長承元年(1132)7月の焼亡時まで続いた。
その後この地は皇子・後白河法皇の院の御所となった。
平治元年(1159)12月9日の夜、源義朝は軍勢500余をもって三条東殿を襲撃、法皇をここから連れ去って幽閉し、かくして平治の乱が勃発した。
その時、武士と火焔に攻めたてられた多数の官女が三条東殿の井戸に入って非業の死をとげたという。このように三条東殿址は、院政時代における政治的文化的中心地のひとつであり、その点で永く記念されるべき遺跡である。」

 

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●高倉宮址京都市中京区東洞院通姉小路下る曇華院前町)
京都市教育相談総合センター西側にあります。

後白河院の第3皇子以仁王の御所で、高倉にあったことから高倉宮(たかくらのみや)と呼ばれました。

 

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●白河北殿左京区丸太町通東大路西入南側(京都大学熊野寮内)
これが一番わかりにくかった・・。
熊野神社から丸太町通りを西へ向かい、熊野寮の一番西北角にありました。
寮内に入らないと見れないのかとも思いましたよ・・。
平安時代の地図では、「白河院離宮」とあります。


白河院の御所でしたが、白河院崩御後、鳥羽院の御所、ついで上西門院の御所となりました。
保元の乱(1156)で、崇徳上皇がここに移り住み、拠点としましたが、
平清盛らの軍勢に攻められ、焼失しました。

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●白河南殿址左京区聖護院蓮華蔵町)

東大路通りから疎水沿いを西に行くとあります。
嘉保2年(1095)頃に白河法皇の御所として創建され、永久2年(1114)には阿弥陀堂、大治5年(1130)には三重塔などが建立されました。
白河泉殿や白河御所と呼ばれ,のちに設けられた北殿に対し南殿や南本御所とも称されました。

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●白河南殿雨落溝の石遺跡左京区聖護院蓮華蔵町)

これもわかりにくいですが、疎水通り沿い、ファルコバイオシステム 京都営業所の前にあります。

白河南殿の雨落溝に使用されていた石材の一部を移築したもので、自然の河原石を巧みに使用していたようです。

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