さらに寺町通りを北上すると、梨木神社が見えてきます。
この鳥居から行っても、さらに北から曲がっても行けます。
ここ来たのも10年ぶりくらいかも・・。
案内板によると、
明治18年(1885)に創建された旧別格官幣社で、明治維新の功労者三条実萬公・実美公父子を祀り、三條家の旧邸が梨木町にあったことに因んでなづけられました。
実萬公は、文化9年(1812)以来47年間、光格、仁考、孝明の三代の天皇に仕え、その圧迫により一乗寺に幽居しましたが、翌年の安政6年(1859)に逝去し、「忠成公」の諡号を賜りました。実美公は、幕末期に尊王攘夷運動の先頭に立ち、明治維新後は太政大臣に任ぜられましたが、明治24年(1891)に逝去し、正一位を贈られ、大正4年(1915)に父を祀る当社に合祀されました。
旧茶室は、京都御所春興殿(賢所)の神饌殿を改装したもので、境内手水舎の井戸「染井」の水は京の三名水のひとつとして有名です。
また、当社は萩の名所として知られ、毎年9月中旬から下旬に催される萩まつりの頃は、多くの参拝者でにぎわいます。
湯川秀樹歌碑
染井。
ここの境内は、9世紀後半に栄えた、藤原良房の娘明子(清和天皇の叔母染殿皇后)の里御所の跡で、この良房の屋敷を染殿と称し、宮中御用の染所として染井の水が用いられたといわれています。京都三名水のうち、現存する唯一の名水として知られています。
続いて、廬山寺へ。梨木神社の少し北にあります。
これは比較的新しいですね^^;
もう少し北、こっちが入り口になります。
正式目は、廬山天台講寺といいます。
案内板によると、
天慶元年(938)、慈恵大師良源(元三大師)が船岡山南麓に開いた與願金剛院に始まります。寛元三年(1245)、法然上人に帰依した房覚瑜が出雲寺に廬山寺を開き、この2カ寺を兼務し、廬山寺第三世明導照源上人(1339-1368)によって廬山寺を與願金剛院に統合し、円、浄土、戒、密の四宗兼寺院となりました。
その後、応仁の兵火に遭い、天正元年(1573)ここに移りました。
現在の堂宇は1788「天明の大火」による炎山以後のものになります。
右が大弐三位。
有馬山 いなのささはら かぜふけば
いでそよひとを忘れやはする
左が紫式部。
めぐりあひて みしやそれともわかぬまに
くもがくれにし 夜半の月影
ここは紫式部の邸宅跡で、源氏物語の執筆の地と伝えられ、源氏の庭には、「紫式部邸宅址」の石碑が立っています。
この参道は見ただけ。
入り口に戻り、このすぐ北側にある清浄華院へ。
法華院ともいいます。貞観2年(860)清和天皇の勅願により慈覚大師円仁が創建した禁裏内道場にはじまります。
後に後白河、高倉、後鳥羽の三天皇から帰依を得た法然上人が、この同情を賜り、浄土宗寺院に改めたとされています。
室町時代には皇室や公家・将軍家の帰依を得、浄土宗の筆頭寺院としての地位を築きましたが、応仁の乱により一時荒廃、天正年間に現在地へ移転しました。その後も皇室の帰依を受け、境内墓地には東山天皇母君敬法門院のほか、皇子、皇女の墓が多数営まれています。
幕末には、御所警備を担当した会津藩・薩摩藩・徳島藩・熊本藩の宿所のひとつとなり、会津藩主であ京都守護職となった松平容保が半年間過ごしています。
大殿には法然上人像を安置、また境内の不動堂には泣不動縁起に由来する泣不動尊像を安置しています。
なにやら研修中だったようで・・撞き方の説明をされていました。
大方丈
本堂。入っていいのか躊躇していたら、教えてくれました^^;
ちょうど泣不動が御開帳でした!
しかも数珠巡礼まであり、久しぶりにゲット。
(泣不動のお話)
三井寺の智興内供が重病に苦しんでいたとき、陰陽師の阿倍晴明に占したところ、寿命には限りがあるが、もし弟子の中で身代わりをするものが有れば、代わるように祈りましょうといいました。そこで、最も若い証空が、身代わりを申し出ます。晴明の祈祷によって病を受けた証空は、自坊に帰り、年来信仰していた不動明王に後生を祈ると、画像の不動明王が涙を流し、
「汝は師に代わる、我は汝に代わらん」と言って檀の上に落ちました。
そのとき、たちまち証空の苦痛が治まり、病は本復したというものです。
阿弥陀堂(旧松林院)
勅使門