さらに三条通を東へ・・。
花見小路の少し東にいったところに、大将軍神社があります。
桓武天皇が平安京を造営した際、大内裏鎮護のため四方四隅に祀られた大将軍神社のうち東南隅の一つである。
特に平安京東のこの地は、三条口の要地にあたり邪霊の侵入を防ぐ意を以て重要視されてきた。
このあたりに建てられた藤原兼家邸は、応仁の乱で廃壊したが、境内東三條社として名跡を留めている。又樹齢800年と伝える銀杏の大樹があり、かつては鵺の森とも呼ばれ、源頼政の鵺退治の伝説を偲ばせる」
岡崎の鵺の森・・聞いてたけどここにあったのか!
ついでに一応、平安時代の位置も確認しておきたい。
参考:日文研 花洛往古図(内容年代:平安時代末期-鎌倉時代)
東三條杜と大将軍杜というのがありました。
大将軍杜は南禅寺の北側にあったのですね。
大将軍社はこれでは確認できませんでした。
ずっと調べてきて思うのは、どうしても大内裏鎮護のために建てられたというのが、あと付けされたのではないかと思えて仕方がない。
実際これも、「大内裏鎮護のため四方四隅に祀られた大将軍神社のうち東南隅のひとつ」とあるけれど、大内裏から見た東南隅は清水寺の南を抜けていく線になってしまいます。
青の線でみると、ぶつからなくはないけど、これだと東南東になってしまいました。ちなみに陰陽道でみても、微妙な位置・・。
南禅寺の北側の方にしても、これまた大内裏から見ても微妙な位置。
つまり、「平安京遷都の時の守護として建てられたもののではない」と推定します。
それに比べて北野天満宮近くの大将軍八神社は、
場所は昔から変わっておらず、ちょうど平安京の北西隅(天門)にあたります。
本当に大内裏鎮護として立てるなら、きっちり陰陽道に沿ってしたい・・。他の史料を見ても、こんな時代ですら方角や配置は、恐ろしいほど緯度経度が一緒だったりします。なので、平安京の鎮護といわれているものがすべて疑わしく思えて・・(笑)
あくまでも私が勝手に思っていることで、
専門家でもありませんから、単純に楽しんでもらえたらと思います。
んー、ここも曲がってますなぁ。
拝殿
本殿
この左奥にあるのが銀杏の木ですね。
ついつい龍に反応。なんだかちょっとかわいらしい。
この二対もなんだか楽しげに見つめあってる感じが・・。
荒熊稲荷社
「當社は千数百年の昔平安城の四隅に祀られた大将軍の一で、南大将軍とも云う。大将軍とは素戔嗚尊の荒魂である。和魂は天王と云い平安城の四方に祭ったと傳えられる」
と書かれています。
え?なんで南? 平安京から見たら東南東だから、どちらかといえば東では??
荒魂と和魂がごっちゃになってしまっている気もしてしまいました。
うーん、謎。
隼社
わかりづらいところに牛さんがいました。
手も届かない・・
東三條社の石碑
東三條社記
「當社相殿に関白藤原兼家公を祭***約千年前の人であるその女栓子は円融天皇の***天皇の御母である社傳にこの地は兼家公の**に東三條の森で西北隅に清水を湛へた小池が***云ふ。子道長が鎮守として仰せ祭ったのである。」
柱で一部読めなかった・・。
白龍辨財天
東門の方に建てられている大将軍神社の碑。
東門です。
御朱印もらいたかったけど・・誰もいなかったので残念。
さて、三条通に戻ってさらに東へいくと、
坂本龍馬 お龍「結婚式場跡」という碑がありました。
だいぶ読めなくなっています・・。
あ、やっぱり中村武生先生が建てた石碑ですね。
「当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。
願寺元年(1864)8月初旬、当地本堂で坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。
龍馬とお龍の出会いや「内祝言」の具体については、1899年(明治32)ごろに聴き取られた、彼女の回想に詳しい。お龍は1906年まで生きていました。一般には慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。が、この話は根拠が薄く、他の史料との検討からお龍の話こそ信用すべきだと思われます。
此の地が選ばれたのは、お龍の亡き父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。その縁により金蔵寺住職智足院が仲人をつとめました。当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで京都は物情騒然でした。しばらくして龍馬は、薩摩島津家から***対立した長州毛利家との和解に奔走した。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなくお龍を寺田屋などに託します。二人はながく別居夫婦だったのです。当地を京都における龍馬とお龍の***史蹟としてここに建碑します。」