京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

【総まとめ編】祇園御霊会のはじまり

祇園祭は、もともと祇園御霊会(ごりょうえ)といいます。

御霊=怨霊をいい意味に言い換えたものです。

洛中でよくないことが起こると、朝廷は怨霊の祟りだと恐れました。それはそれだけのひどいことをその人たちにしたからともいえますよね。何もしてないなら、恐れることはありませんから。

その御霊会のはじまりは、どういうものだったのでしょうか。

 

 祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)

都に疫病が流行したのを御霊の祟りとして、貞観11年(869)にはじまったとされています。『祇園社本縁録』によると、6月7日に66本(全国の国数)の矛を建て、14日に洛中の男児及び郊外の百姓を率いて神輿を神泉苑に送り、祀ったことから、これを祇園御霊会というようになりました。

この矛は長さ2丈ばかり(約6m)もあり、柄の先端に矛がつき、取り付け部分に環があり、そこに鈴を吊るしています。歩くと鈴の音がなり、この剣矛が、今の鉾のもととされています。今も各地で残っている剣矛にも原型がみられます。

 

しかしそれより前の貞観5年、7年にも御霊会の行われた記録があります。祇園御霊会とはっきりとした記録ではありませんが、6月7日、14日という日であることから、これも祇園御霊会だとされています。応仁の乱以前は、58基の山鉾があったようです。

 

ちなみに祇園社の創祀は、はっきりはわかっていませんが、斉明天皇2年(656)とも貞観18年(876)とされています。

 

ただ、四条通の壬生に元祇園社梛神社(もとぎおんしゃなぎじんじゃ)というのがあります。『京都古社寺詳説』によれば、876年の疫病流行時に僧円如が、播磨国飾磨郡の白幣山から牛頭天王を都の元祇園神社に勧請した、とあり、それから今の東山に遷されました。これを考えるとやはり、貞観18年が創祀じゃないかなと思いますね。

 

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蘇民将来(そみんしょうらい)

 

祇園祭の神を素戔嗚尊とする所以は、『備後国風土記』にある蘇民将来の逸話から来ているそうです。

 

昔、北の海にいた武塔神(むとうしん)が、南海を旅しているうちに日暮れてしまいました。そこには貧しい兄の蘇民将来と裕福な巨旦将来(こたんしょうらい)の二人が住んでいました。武塔神は巨旦将来に宿を貸してほしいと頼みましたが、貸してくれません。そして蘇民将来のところへいくと、彼は快く宿を貸し、粟殻で座をつくり、粟飯でもてなしました。

やがて、武塔神は八柱のみ子を連れて再び訪れ、以前の礼をしたいと蘇民将来とその家族に茅の輪を授け疫病にかからないようにしました。

他の者はことごとく死に絶えてしまいました。神は「我はスサノヲの神なり。後の世に疫病が流行すれば、蘇民将来の子孫と言い、茅の輪を腰につけていたら免れさせよう」と仰せられました。

釈日本紀』には、「これすなわち祇園社の本縁なり」とあります。これにより、祇園祭には「蘇民将来之子孫也」と記した護符をつけたり、粽を軒先に吊るしたりします。7月31日には、八坂神社にて粟餅の授与もあります。

『伊呂波字類抄』の「祇園」の項によると、牛頭天王と武塔天神は同一とあります。

  

八坂神社の西門を入った正面に、疫神社がありますが、ここには蘇民将来を祀っています。7月31日の夏越祭はこの疫神社の鳥居に茅の輪がかけられ、祭典が行われます。

 

参照:八坂神社編『八坂神社』

 

 

ここまでは、祇園祭の本などにも書かれていることですね。

ここで引っかかるのは、茅の輪と武塔神・・。

茅の輪をつけて、みんなが蘇民将来の子孫だと名乗れば、災難から逃れられるなんて、調子よすぎだと思いませんか?

そして、武塔神牛頭天王(ごずてんのう)=素戔嗚尊(すさのおのみこと)ということになります。素戔嗚尊の人物像がここでも合わない・・。横暴だったのが、めっちゃいい人になっています。横暴な素戔嗚尊なら、裕福な巨旦将来を襲って、財産を取り上げると思います。貧しい接待で満足するとも思えない。やはりこれも騙りで、巨旦将来の財産を取り上げたから、その家族もろとも死に絶えたのではないでしょうか? そして蘇民将来は、貧しかったから標的にならずに生き延びたのではないかと考えます。

 

ちなみに粽は、周りからの中傷によって追放され、汨羅に投身自殺した政治家を憐れんだ人々が、竹の筒に米を入れて汨羅の水に投げ入れたという、中国の遺風からきたものだそうです。これが、茅巻となって、古くは茅(ちがや)の葉で巻いていました。茅の輪もここからきたのでしょうね。実際、粽や茅の輪を自分で作って思いましたが、茅をぐるぐるまきにして、吊るす・・祀りと同じ??

まさにこれも、閉じ込めて出てくるなとでも言っているようにも思います。蘇民将来はひっそりと暮らしていたから災難から免れました。つまり茅の輪を身に着けていたら災難から逃れられるのではなく、外にでないようにするから災難に合わない、素戔嗚尊から自分の身を守ったことから来ているんじゃないでしょうか。

 

 

こちらに素戔嗚尊がどういう人か、言葉の意味などを書いています。

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