平等院、改修工事終わってから一度も行ったことなかったのと、頼政展をしているので合わせていくことにしました。
ほどほどに良い天気で、暑くもなく風もあって過ごしやすかったのが良かった。
観光客も思ったほどではなかったですね。
まとめも書いていなかったので、改めて。
永承7年(1052)、藤原頼通が父の道長の別荘を寺院として創建。
阿弥陀如来を阿弥陀堂に安置し、その壁扉画には、雲中供養菩薩像52躯、9通りの来迎を描いており、極楽浄土の宮殿をイメージしています。
浄土式の借景庭園は、史跡・名勝に指定されています。
入ったところにある藤棚も有名ですね。
辻利右衞門像
扇之芝
治承4年(1180)5月26日源頼政は高倉宮以仁王を奉じて平家追討の兵を挙げました。
しかし宇治川にて平知盛の大軍に追撃され、流れ矢に傷ついた頼政は軍扇を開き
「埋もれ木の 花咲くことも なかりしに
身のなる果てぞ 悲しかりける」
と辞世の一首を残し、この地で自刃したと伝えられています。
扇之芝と書かれています。
頼政が自害した芝やお墓も、前に行ったはずだけどあまりに前過ぎて覚えてなくて、改めて参拝。
六角堂
阿字池の周りをぐるっと回るようになっています。
法花堂之路
鐘楼
鳳翔館の頼政展では、頼政が使ったという兜や弓、像などがありました。残念ながら賜った獅子王刀は説明しかなくて現物はなかったけど💦
ゆかりの地の地図と説明があって、ここだけでもパンフで作って置いといてーと思いました。写真も撮れないし、知らなかったところだけスマホでメモりました。
(頼政の小説を書いていて、そのためもありました)
茶房藤花
平等院の中にある茶房も初めて行きました。こんなところなんですねー!
冷房効き過ぎて寒かったので、宇治煎茶と作りたての最中を注文。
淹れ方を説明頂きつつ、美味しく頂きました。
旧南門
伏見桃山城からの移構とされ、江戸時代初期伝来の各種古図と比較しても場所・規模ともに変動がない。垂木等も江戸時代以前の特徴である先端が細く大胆な反りで、天井板を備えた古式武家門の姿をよく残す。主要部材のほとんどが希少な赤樫の巨木で、固く火に強いことから、戦国期の城門などに使用されたことが記録に残るが、ねじれが起きやすい樫材による建造物はこれまで日本で確認されたことがなく、城造りの天才として知られた秀吉による城門「薬医門」の現存する最古の建築として注目される。
重要文化財 養林庵書院 単層入母屋造檜皮葺
慶長6年(1601)加傳和尚が伏見城より移建したと伝えられる。
広縁中央には寛永の三筆の一人、松花堂昭乗いよる「養林庵」の扁額がかかり、内部には狩野山雪工房による襖絵「籬(まがき)に梅図」、山楽による床壁絵「雪景楼閣山水図」が描かれている。落ち着いた書院と仏間、茶室という三つの要素を持ち、随所に桃山様式を残す。
細川三斎(忠興)の作といわれる洗練された平庭枯山水と見事に調和する。
浄土院
(一部略)平等院の塔頭で、明応年間(15世紀後半)に平等院修復のために開創した寺と伝えられる。
宇治市指定文化財の木造帝釈天立像や木造阿弥陀如来立像、和漢朗詠集巻下断簡(平等院切)がある。古来筆者を源頼政と伝え、平等院切という名称も頼政との関係で付されたと思われる。
また古図によると、平等院山内で最も古い書院として大書院があり、蘭香斎玉寳の獅子図四面や後醍醐天皇が三種の神器を納め平等院に逗留したと伝えられる御座所などが残されている。
源三位頼政卿●蹟坐碑
うう、微妙に一つだけわからない・・。
通園之墓
通園家初代太敬庵通園の墓
通園家の初代は古川右内といい源頼政の家臣でした。
頼政から政の字を賜って通園政久と名乗り、平治の乱の直後、宇治橋の東詰に庵を結びました。
治承4年(1180)頼政が以仁王を奉じて平氏打倒の兵を挙げると、頼政の元へ馳せ参じて宇治橋の合戦で平家の軍と戦い、討ち死にを遂げました。
この主従関係を物語った狂言として「通園」があり、度々公演されています。
羅漢堂
宇治茶祖竹庵の碑誌
源三位頼政の墓 宝篋印塔
源頼政は保元・平治の乱で武勲を挙げ、平清盛の奏請により、源氏として初めて従三位に叙せられました。歌人としても名高く、勅撰集に優れた和歌を多く残しています、。
治承4年(1180)5月26日平家追討の兵を挙げた頼政は、宇治川で平知盛ぐんお追撃を受け、平等院境内にて自刃しました(齢76歳)
不動堂
最勝院
ふと思い立ってこれを書いているのが、なんと頼政の亡くなった2日後・・。
意識していなかったので、ちょっとびっくりしてしまいました。
何か呼ばれたのかもしれませんw